2009年7月 9日 (木)

『パパは楽しい躁うつ病』

『パパは楽しい躁うつ病』(北杜夫と娘の斎藤由香の対談)を読んだ。おもしろかった。
思えば、私は小学生の頃、遠藤周作だとか北杜夫だとかの本ばかり読んでいたんだっけ。
中学生の頃は、なだいなだの講演会にまでひとりで行った。
北杜夫を読んで、「躁うつ病ってかっこいいなぁ、やっぱり人間は精神くらい病んではじめて一人前でそれで箔がつくんだ」などと考えていたヘンな小学生女子だった。う~む、それが今につながっていたのか…。それが私の原点だったかも。

北杜夫の娘、斎藤由香のあとがきがよかった。
「父は、「パパは作家としては大したことはないけれど、躁うつ病を世に知らしめた功績はある」と言っている。普通は自分の病気を隠すのが当たり前なのに、敢えて父は原稿に書いた。高度成長時代、みんなががんばっているときに、「うつ病です」と告白するのは文壇でも勇気がいったことなのではないだろうか。
(中略)
長年、私は会社で、「上司に評価されたい。課長になりたい」と必死でもがいているというのに、父は全く違った人生観を持っていた。
人間が生きていく上でのつらさ、悲しさ、大変さ、そして楽しさを身をもって教えてくれたとも言える。父は作家ではなく、まさに精神科医なのだろう。」

躁病のときのエピソードが、とにかく笑える。遠藤周作との交流の回想もおもしろい。
いい大人がいったい何やってんだか。私もこうなりたい、と、思わせる。

北杜夫自身が精神科医で、自分の躁うつ病は誰にも治せない、と、きっぱりと、いばっているところがかっこいい。
どうせビョーキになるなら、ビョーキの自分をこのくらい楽しまなくちゃ、と、改めて思った次第だ。

数日前、神はきまじめさよりも遊びを愛する、と、ふと、思った。
そんなことを思ったあとだったので、その考えと、この本とがなんだかつながっているような気がして嬉しかった。
どんな苦しみの中にも、苦悩の中にも、微妙なおかしみがある。

ばかばかしい生き方っていいなぁ。あこがれる。
株をやるために自分の生原稿を売りに行って、高く売れたと威張ったり。(普通の作家は自分の生原稿を自分で売りに行ったりなどしないものだが、北杜夫はそんな常識などおかまいなしに高く売れたと自慢しているところが好きだ。)
あるいは、マブゼ共和国というのをつくって国歌や国旗をつくったり。マゾヒストが攻めて来た時に使う乗馬用ムチを持って行軍までしている。
国旗・国歌に反対しているより、自分で勝手にヘンな国旗や国歌をつくってしまうほうがラディカルかも!

そういうおとなに私はなりたい。

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2009年7月 4日 (土)

は、は、はずかしい…

先週、誰かが集中的に私のブログの過去のエントリーを読んでいた。アクセス解析で調べてみたら、どうも私の個人的な情報を知っている知人であるらしいということがわかった…。
いったい誰が私のブログを熟読しているのだろうと思うと、おちおち更新もできなかった私なのである。

自分は過去にいったいどんな恥ずかしいことを書いたのか読み返してしまった。読まれてはまずいようなことはなかったか、と。
幸いだったのは、途中からエントリーした内容をカテゴリー分けしないようにしたことだった。
そのため、「映画」とか「霊性」とかのカテゴリーをクリックしても、最近書いたものは読めないようになっている。
ひっひっひっ。○○どん、コメントはいらないぜ!

いや~しかし、自分の恥部を見られてしまったようで恥ずかしくて仕方ない。

自分が普段はあまり公にしてない自分の人格の一部。こういうのを普通の生活でも出すことが可なのか不可なのか、それがいまだにわからない。まだ一応なんとかごまかしているのだが…。微妙なんだよねぇ、そのラインが。

しかし読み返してみたら、なかなかいいこと書いてるんだよね(自画自賛か)。
ブログを始めた当初は、自分の叫びのような言葉を伝えたいと、けっこうまじめに、かなり必死で書いていたから。

ま、だから、読まれてもだいじょうぶだろう、きっと。

ひかないでね、○○どん!

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2009年6月26日 (金)

二日酔い

二日酔いで死にそう。疲労とストレスが重なっていたところに、生ビールと、泡盛と、ラムのロックを何杯も続けて飲んだのは、効いた。(どうしてそんなに呑んでしまったんだろう…、自分で自分が理解できない。)一緒に呑んでいた相手に、たぶん、からんだと思う。男ってどうしてそんなにやりたいわけ!?従軍慰安婦とかどこに行くにも何するにもやれる場所つくらなきゃいられないじゃない!とか。あぁ、自分の男性憎悪はいまだに治ってないようだ。
性虐待を小学生のときに目撃して以来の男性憎悪と人間不信と無力感が、いまだに解消されていない。私も含めてその場にいあわせた誰もが見て見ぬフリをして、誰も彼女を助けなかった。あのときの人間不信。小学生の私は、恐怖で凍りつき、同時に何もできない自分の無力感と助けられなかった罪悪感が私にとりついた。それがいまだに私を呪縛している。
たぶん、こわもてのポーズは、自分の恐怖心を隠すための、自分を守るための防波堤だ。怒りはその防波堤から、いつもほんの少しずつにじみだす。
酒をのむと、自分の怒りを理解してくれそうな相手にそれをぶつけてしまうんだ。
自分と長いつきあいの精神分析医はそのことをものすごくよくわかってくれていたから、私の怒りをいつもちゃん受け止めて、向かい合ってくれた。自分のなかにあったおさえきれない怒りを、その理由を、はじめてぶつけた相手だった。へんな人だけど、ほんといいおっさんだなぁ。また遊びに行こう。
このブログ読んでいる私の知人(とくに男性)は、私が深酒する前に、私の前から逃避してくださいね!私、酔うと必ずからみますから!
あんまり知人は読んでないブログなんだけど…。そして知人にはあんまり自分の本音を語れない小心者だけど…。
だけどこうやって文章化するときには、どうして大胆に自分の内面を出せるのだろう?というか、言葉にできないから、書くしかなかったのかもしれないけど。
いつも行っている近所の医者(女医さんで私と仲がいい)は、あなたはアルコール依存症だと私にはっきり言った。そんなにしょっちゅう飲んでいるわけじゃない、と反論したら、でも毎日飲むでしょ、やめろと言ってもやめられないでしょ、それをアルコール依存症と言うんです、と。
返す言葉がなかった。悔しいから、禁酒してやる!(ときどきは…)
タバコもやめれないでしょ、と言いやがった。悔しいから禁煙してやる!明日から…。

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2009年6月12日 (金)

ようやく

ようやくブログを書く気力が戻ってきたらしい。

このブログを知人から「読んでます」と言われ、自分でひいた。
そういえば、このブログを始めた当初は自分のスローライフを紹介するような、ほのぼのとしたブログを書くつもりで平気でアドレスを人に教えていたっけ。
こんな過激な内容を書きまくるブログになってしまうとは自分でも思っていなかった。
だから今では自分のブログアドレスなんて、けっして人には教えてないが。
あの頃アドレス教えたうち、いったい何人、いったい誰が、このブログを読み続けているのだろう。
お~、おそろしい!
まっ、いっか。もう、私はこうゆう人なんだと開き直って生きるしかない…。
こんな私でいいのだろうか、私の本性がわかったらみんな逃げていくのではないのだろうかという不安は相変わらず拭い去れないままだけど。
自分で自分を肯定するしかないし、本当の自分を隠していたら、生きにくいったらありゃしない。本当の自分をだしたところで、これはまたこれで、かなりの生きにくさなんだけど。

4か月半の父の介護で、からだの調子がかなり悪い。カップヌードルとか駅ビルのカレーライスとか、ろくなもの食ってなかったもんなぁ。
そういうのって、本当に顕著にからだに出てくるものなのだなぁと、身をもって体験している。

首も動かず、肩も背中も腰も痛い。壊滅状態の家の片付けもままならず、犬の散歩もずっと行けていない。
なので、ひっきりなしに、鍼灸に行ったり、マッサージに行ったり、日帰り温泉に行ったりしていたら、お金の残高がどんどん減っていった。

きょうは、首がまったく動かないので鍼灸に行った。
ここの鍼灸師とは長いつきあいで、いつも治療を受けながら色々なことを話す。
もちろん父の看護中のことや東大病院のひどさ、弟のこと、父が死んだことなども逐一話してきたわけだ。
だが、きょうは逆に彼のお父さんが死んだときの話を聞いた。
彼のお父さんは82歳で亡くなったらしいのだが、躁鬱病で躁状態のときに貯金を全部使い果たし、葬式費用も入院費用もなかったらしい。病院を抜け出して車を買ったり、息子が鍼灸師なのに整骨院に行ったり、とにかく振り回されてたいへんだったという。彼はひとりっこで、お父さんが病院を抜け出して問題を起こすたびに患者さんをキャンセルして、お父さんが問題を起こしているところに行ってはあやまって問題を治めなければならず、それなのにお父さんからは感謝の言葉ひとつなく、「お前は鍼灸師で先生とか言われているらしいが、それでいい気になっている」とか言われ、もういい加減に死んでくれ!と思ったそうだ(笑)。点滴を何度引き抜いてやろうかと思ったかしれない、とか言っていた(笑)。

それ聞いて、いいなぁ…と思った。
私の父親もそれくらいわがまま言って、やりたい放題やって死んでくれたら、今こんな思いをすることもなかっただろうに、と思って。
私の父親は、病院でも先生の言うことをちゃんと聞いて決して逆らわず、先生にも看護師さんにも母親にも私にも「ありがとう」「ありがとう」とばかり言って、最後までわがままひとつ言わず、贅沢もせず貯金して自分のものは何も買わずに、死ぬ直前まで仕事だけして死んじまったもんなぁ。ちぇ。くそお…。

私とは仲良くもなかったくせに、母親や弟の前では見せないような弱みを私にだけは見せやがって。弟や母親の前では平気な顔をしていたくせに、私の前だけでは涙を見せて、「とにかく生きたい。どんな治療法でも試してみたい」と泣いて言った。(だからいろんな治療法を私が必死に探したのに、それを弟にことごとく邪魔された。)
なんでそんなに生きたかったんだろう。生き続けてまた勤勉に規則正しい生活を送り続けるつもりだったのだろうか。生きることにいったいどんな意味を彼は感じていたのだろう。わからない。わからない。

ベッドから起きられなくなってからも、私の顔を見ると嬉しそうににっこり笑った。母親や弟には見せないような笑顔を見せた。母は、「あんな顔、私にも見せたことがない」と言った。なぜだ。あんなに仲が悪かったのに。くそぉ。私をこんな気持ちにさせやがって。

最後の最後まで憎ませ続けてくれて、あぁ死んでほっとしたと思えたら、どんなにラクだっただろう。
ちぇっ。なんだかなぁ。
鍼灸院の帰り道、ずっと涙がとまらなかった…。…。ちぇっ。

       
ところで、ずっと小説を読めなかったんだけど(小説の言葉がどうしても頭の中に入ってこなかったのだけれども)、なぜか急に小説が読めるようになった。
きっかけは、川上弘美の『神様』という本。最近の小説事情はまったく知らなかったのだが、芥川賞作家だったんだねぇ。うまいなぁ、この人。ひさびさに、テーマではなく、言葉の使い方のうまさで読ませる小説家に出会った。ずっと昔に太宰治の『富岳百景』をよんだときにも彼の表現力に舌を巻いたけど、ひさびさにとにかく上手い上質な小説を書く作家と出会ったという感じ。今は『溺レる』を読んでいるけど、これまた上手くて、思わずうなる。

『神様』という本を手に取ったのは、タイトルに惹かれたから。思えば、小学校高学年のときに遠藤周作の『沈黙』を読んで以来、神というのはずっと私の中心を占めているテーマなのかもしれない。もし神がいるなら、なぜ神は苦しんでいる人を助けないのか、と。なぜ神は傍観しているのか。今は、自分なりにその答は出せているけれども。

母親は父親が死んで以来、近所の渋い蕎麦屋によなよな出向いては酒を呑んでいるらしい。後期高齢者のばあさんが、こじゃれた都心の蕎麦屋でひとり酒を呑む。
そうきたか。
お父さんが生きていたときはお父さんが嫌がったからやらなかったけど、四十九日が過ぎたら社交ダンスとかやってもいいわねぇ、若い頃はよく踊りに言ったのよ、とか、のたまう。どうしてこういう母親から自分のような娘が生まれ出でたのか不思議でならないが、たぶん、社交ダンスに付き合わされることになるのだろう。というより、自分からつきあうことになるのだろう。あぁ、こうやって自分の意思を殺して、昔っから母の期待に応えてきたなぁ。子供の気持ちや思いを想像することがまったくできない人だったから。母を見るといつもなんてかわいそうな人なんだろうと思い、この人の期待に応えられない自分はなんてだめなんだろうと思い続けておとなになった。
母が少しもかわいそうじゃないと理解できたのは、そう教えてくれる精神分析医と出会って以降のことだった。
ま、いっか。さすがに私もおとなになった。社交ダンスにつきあうか。

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2009年6月 7日 (日)

ぐち、ぐち、ぐち。とにかく、愚痴。

部屋がようやく、ほんのわずかだが、片付いた。
父が5月12日に死んでから、ゴミの山のような家の中で過ごしていたのだが、今日は気力を振り絞って少しだけ片づけた。
ガン関係の本やら資料やら大学病院関係の資料やらを、ほんの少し整理した。

久しぶりに自炊した。
シーフードカレーなるものをつくり、缶ビールを2本、白ワインをハーフボトル飲んだ。(飲みすぎ?)
でも、家で椅子に座ってご飯を食べたのは久しぶり。
今までは、キッチンで立ったままビールを飲みながらカップヌードルを食べる余裕しかなかったから。

人の死というのは、ボディブローのようにじわじわと効いてくる。
私は父と仲が言いわけでは決してなかった。
というよりもむしろ、仲があまりよろしくないというか、父と交流するのが私には不可能だった。

私はかなりリベラルな人間で、フェミニストという種族に属するのだろう。
フェミニストを勉強したり標榜したりしたことは一度もないつもりだが。
父は、フツーの人だから、家父長制が当たり前だと思い、女の子供は依存的でおとなしいと思い、私のことを普通に結婚して普通に子供を生むだろうと信じていた。
ところが、あけて、びっくり。
自分の娘は、父が在日差別的な発言をするたびに激昂し、高校時代に部落問題を勉強するような娘だった。
父とどれだけ言い争いをしたことか。でもまったくかみ合わなかった。
そして自分自身をいつも憎んだ。
どうして自分は普通の女の子みたいになれないのだろうか、と。

無学の父を論破した挙句、罪悪感にのたうちまわった。
父が在日差別をしたり部落差別をしたりするのは、彼が学問も教育もまともに受けず、そのような価値観や環境の中で必死に生き延びてきたからだということを知っていたから。
でも彼を責めずにはいられなかった。
自分はたまさか教育を受けて、本をたくさん読んで、父とは違う価値観を得る余裕があっただけなのに。

父は、1月にがん告知を受け、5月12日に死んだ。
私は死は終わりではなく、プロセスだと思っている。
でも父は、死を敗北だと思っていた。
自分との死生観の違いに驚いた。

私はもともと医者なんて信用していなかった。
医者だったただの人間だ。神様じゃない。いろいろな欲望で動いている。
だから医者の言うことを鵜呑みにしちゃだめだといくら私が言っても、東大医師の言葉を信じた。

最期は、治療ができないと保険点数がつかないという理由で「リハビリのために他の施設に転院が必要」とウソをついた医師を私は追いつめ、謝罪させた。
緩和ケアチームのトップが白い巨頭みたいに7人くらい医者を引き連れて病室にやってきて、国からの圧力があって保険点数がつかない患者さんを入院させておくことはできないのだと正直に父に言った。

東大を退院するとき今日か明日かの命だと言われたが、父はそのあと2週間も生き続け、家で父を看取ることになった。
いや~、ものすごく貴重な体験でしたよ。
死に向かいつつある父親と2週間を共に過ごすというのは。
おかげで、今、へろへろで、燃え尽きているわけですが。

しかし、それにつけても、むかつくのは、弟夫妻だ。
弟夫妻に限らず、普通の人はそう思うのかもしれないが、私が東大の医者に楯突いているのが彼らには理解できない。
お姉ちゃんは専門家じゃないんだから、専門家に任せろ、と、言う。
そういう専門家至上主義が患者から力を奪ってきたのではないか。

誰か専門家が自分のことを何とかしてくれるという信念。
自分の命も生活もこの国も、どこかの誰かがなんとかしてくれるなんてことはありえない。
自分が変えるんだ。

父の最期、どこで読んだか知らないが、昏睡状態の父の背中をさすっていた私のところに弟がやってきて、「モルヒネは8時間以上置かなきゃだめだと本に書いてあった、お父さんをこれ以上意識朦朧にしてどうするんだ」とか言いやがった。すでに、昏睡状態なのに…。

私もきれて、じゃああんたが看取ったらと言い残してそのまま帰り、父の最期に立ち会うことはできなかったが、母によると弟は、昏睡状態の父の体温を測り、解熱剤の座薬を入れたりしていたらしい。父は苦しがっていたそうだ。なんだかなぁ、もう。

父ががん告知を受けた直後に私が自分の判断で父を大学病院に連れて行き、父の一命を取りとめ、その病院から「治療しても余命3か月」と聞かされ、在宅医療を含めた色々な治療の環境もすべてひとりで整えた。それをことごとく邪魔しようとしたのが弟夫妻だった。
セカンドオピニオンをとったほうがいいというのも、代替医療を取り入れたほうがいいというのも、丸山ワクチンもすべて邪魔された。(じゃあ、死ぬのを黙ってただ待つのがベストだというのか、お前らは!)

邪魔するだけならともかく、深夜に電話してきたり、家まで押しかけてきたりして、「お姉ちゃんは専門家じゃないのに何がわかるんだ!」と気が狂ったように攻撃してきた。本当にびっくりした。
人の死が関わると、その人間の本性があらわになるんだね、ほんと。それがよくわかったよ。
最後まで冷静でい続けたのは、私一人だった。
自分の家族の悪口を言いつのっても仕方ないが、そういうこともあり、本当にへとへとになってしまった。

弟とは死ぬまで言葉を交わしたくない心境だ。実際、通夜や告別式では一言も会話しなかったが。
父が死んだ翌朝、夫がひとりで父のもとに行ったら、弟が泣きながら夫の手を握って「許してください。今後とも仲良くしてやってください」とか言ったらしいが、父親の死ぬ直前に父の枕元でお前呼ばわりされて喧嘩売られたことが赦せるか、ばかやろー!!!自分では何一つ父の命を救うために動かなかったくせに。邪魔しかしなかったくせに、私をあれだけうつ状態に陥らせたくせに、今頃なに言ってやがんだ!ふぅ。あぁ、疲れるぜ。

とにかく、厚生労働省に対しては、落とし前をつけなきゃ気がすまない。
厚生労働省は今は在宅医療にシフトさせるために、在宅医療に従事している医師達に十分な報酬が行くようにしているけれども、その仕組みが整ったら、彼らの報酬をばっさり削るつもりだろうと元東大勤務の医師は言う。

医者や誰かがなんとかしてくれるわけではなく、自分の中にこの社会を変える力があるんだという信念、自分が受けた痛みを他の人に味わわせないために自分が社会を変えるんだという意識の持ち方を、弟は決して理解できないだろう…。

末期がん患者を取り巻く状況について、きちんと取材して、本にしたいと思っている今日この頃。

あぁ、いつになったら、私のスローライフは実現することだろう。

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2008年12月18日 (木)

最近みたDVD、読んだ本など

最近見たDVD

『HEROES シーズン2』
見始めたらとまらなくなって、一気見。しかしこの中途半端な終わり方は…。来年春までシーズン3を待たねばならないとは。

『ヤマカシ』
ストーリーは非常に陳腐だが、登場人物がスタントではなく壁を登ったり回転したりする身体能力を見ているだけで気持ちよかった。またトランポリンをやりたくなった。

まだ見てないけど、映画『誰も守ってくれない』はおもしろいのだろうか。
http://www.dare-mamo.jp/
テーマには惹かれるけど。

最近読んだ本

『だまされることの責任』(佐高信×魚住昭、角川文庫)
本屋でたまたま手にした本だけど、すごくおもしろかった。
感想をじっくり書いてみたい気分だが、時間がないから、また機会があったらじっくりと。

『不可能性の時代』(大澤真幸、岩波書店)
いろいろ感じたこともあるが、時間があったらまた書いてみる。
一点だけ言えるのは、性虐待の「過誤記憶」について、この人の論の根拠になっている情報は誤っている。
二次情報をもとにこういう論を展開されるのは少し困る。

他に、
『いじめるな! ― 弱い者いじめ社会ニッポン』(香山リカ×辛淑玉、角川書店 )
『「お金」崩壊』(青木秀和、集英社新書)
なども今読んでいる。
辛淑玉の本を読んでいると、いつも元気が出てくる。

ブログ書いている余裕がないんだけど、思わず書いた。

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2008年12月12日 (金)

感情移入

勝手に感情移入する自分のくせが、また始まっている。
連続しておこっている殺人事件だとか、派遣社員のこととか、いろんな人に感情移入が自動的に始まって自分で自分がうまくコントロールできない。
突然解雇されたりした人はどうやってこのあと生活するのだろうとか、だいじょうぶだろうか、とか、でも今の自分にできることがわからない。

経済学者の話を聞きにいったり、市民運動をやっている人の話を聞いたり、いろんな人の話を聞きに行っている。きょうは企業側というか、企業の側にいる人たちで社会をよくしたいと考えている人たちの話を聞きにいった。三本じめとか久しぶりにやったよ。市民運動系とかセルフヘルプグループ系とかにいると、三本じめとか一本じめなんてやらないものなぁ…。
フェミニズム、当事者グループ、畑系、セクシャルマイノリティ、心理学、スピリチュアル、…などなど、いろんな人の話を聞いてまわった。
みんなそれぞれの立場で、まったく異なる視点で考え行動している。

雇用を創出するだけの仕事を増やしてもだめだということはなんとなく言えるかもしれない。自分の仕事の成果が目に見えるような形で、小さな仕組みの中で、本当に生きるための実体経済を再生させなければ、紙切れの金を得るための実体のない労働でまわしていってもどこかで破綻する。
生きるための最低限のものを、国や企業に委ねるのではなく自分達でつくっていくことはできないかと夢想している。
仕事が歓びとなるような仕組みをつくっていかなければ…。
でも一方で、働けない人もいるわけで、そういう人だって生きていける仕組み。
現にいま困窮している人のことを考えつつ(上から目線ではなく)、大きな枠組みのなかで考えること。
今現に困っている人に何ができるのかよくわからない。

でも、自分のことでいっぱいいっぱいの人は、まず自分のことをなんとかすることでOKなんだと私は思う。
市民運動系の人で、メンタル系の人とか、癒し系の人とかを自分の救済や癒されることしか考えていないと言う人もいるが、社会の枠組みでものごとをとらえているから自分のほうがえらいと思うのも違うように私は感じる。

あー、わかんない。わかんない。どこに行ってもなじめないような感覚と、自分には何もできないという無力感と、何も考えず自分のことだけ考えていたいという気分と、自分は恵まれているという罪悪感がぐるぐるまわって、交感神経優位になってやたら興奮し、寝る前に睡眠導入剤を飲む。
私ってなにもの?

感情移入をとめたくて、頭を切り換えようとして「ヒーローズ」のシーズン2を見始めたら、とまらなくなるし。
三谷幸喜の『笑いの大学』もついでに借りたら、すごくおもしろかった。
三谷幸喜はやっぱり天才だ。こういう闘い方もあるのかと思った。
自分の立ち位置でできることはある。既存の仕組みにノーを言うのではなく、それをうまく解釈して、いい方に変えていくこと。誰も傷つけない闘い方。
そういうのがありうるのだという可能性を、三谷幸喜は捨てていないのが、すごい。

こんな精神状態を続けていたら、まず自分自身がおかしくなる。正直、もう死んじゃいそう。
自分の心身のケアをきちんとせねば。
犬の世話もおろそかになりがち。最低限のことはやってるけど。老犬の一匹は失明したから、目が離せない。

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2008年12月 7日 (日)

メモ3

「農」「環境問題」を経済とのつながりの中で捉えなおすために、インド人のフェミニスト、ヴァンダナ・シヴァが書いた『生きる歓び イデオロギーとしての近代科学批判』(築地書館、2987円)が役に立つ。

以下、この本の「序」より少々抜粋。

「近代の科学と開発は、歴史的にも思想的にも、男性起源、西欧起源の企みであって、自然と全人類の絶滅をせまる家父長制イデオロギーの、もっとも新しく、残忍な表現である。」
「第1章では、…略…もっぱら利潤を追求するという西欧的家父長制経済の特殊な仮定が生存のための経済学の人間的な仮定を押しつぶして、どれほどエコロジーの荒廃に根ざす貧困の危機を深めているかを分析する。第2章では近代科学のいう中立性と普遍性がいかに虚構であるかについて述べる。
(中略)
第5章は食糧危機の分析である。この危機も自然資本を破壊し、食料の専門家であり生産者である女性を排除する男中心の農学と農業開発に根源がある。
……
……」

ヴァンダナ・シヴァは、私のあこがれの女性のひとり。
こういう本をきちんと読んでから、ロハスとか、エコとか言ってもらいたいもんだ。

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メモ2

きょう、森野栄一氏の話を聞いてきた。
森野さんの話は相変わらずすごくおもしろい。
(個人的に話をすると、単なるすけべなおじさんなんだけど。)

森野さんの提唱したコミュニティ通貨が矮小化して理解されていることが残念でならない。
森野さんはコミュニティ通貨を使って社会の「価値」を変え、社会の基本的な仕組みを変えようとしている(公正なシステムをつくろうとしている)わけだが、法定通貨の代わりとしてしかとらえられていないのがもったいない。

コミュニティ通貨については、時間と体力と気力があれば改めて書いてみたいと思う。
どんなふうに矮小化されているかについても。
それにしても、コミュニティ通貨ですらひとつの市場や野心の道具として使おうとしている人たちがどんどん出てきた状況には驚いたわけだけど。

レインボーリングの安部さんが書いた「金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った 」という本についてどう思うか聞きたかったのだが、人が取り囲んでいたため聞きそびれた。
こういうユダヤ陰謀論に陥ってしまうのであれば、コミュニティ通貨もいかがなものかと思うわけだが。

それにしても、森野さんの話を聞いていると、アメリカ経済がすべてのおおもとの原因であって、格差も派遣の問題もそこからきているように思えてしまう…。
1パーセントの人が7割以上の富を独占しているアメリカ。
返済する見込みのない人間にどんどん貸し込んでいくビジネスモデル…。
個人レベルでも世界レベルでも…。

森野さんの話を聞いて、経済とのつながりのなかで環境問題とか有機農法だとかに私は関心を持ったんだっけ。
それなのに、社会的視点やラディカルさがすべて抜け落ち、エコや有機農法がここまで漂白されて市場の中に取り込まれるとは。
畑をやっているとか石油系の商品を買わないようにしているとかいうと、ロハスですねとか、自然派ですねとか、エコですねとか言われたりするのだが、そういうふうに言われると異常に腹が立ち、添加物にまみれた食品をどんどん食ってやろうじゃないかという気にもなってしまう。

私は、国や企業に、自分の生きる基盤を左右されたくないだけなんだよ。
そこをおさえられていたら、なにをされてもノーと言えなくなる。
家族といっしょだ。
健康派・自然派であるなら、とっくにタバコをやめてるさ。
やめたいのにやめられないだけなのだけど。

2日続けてブログ書いた。すごい。
そのうち、森野さんの話を改めてきちんと聞いて言語化したいな。

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2008年12月 6日 (土)

メモ1

なんか心身ともに消耗してくたくたな日々が続いていた。
でも書きたいことが少しずつでてきたので、時間をつくって少しずつでも書ければと思う。

自分は今いる足場で、自分にできることしかできないと思う。
世の中には本当に困窮している人が大勢いて、何もできない自分に対して圧倒的な無力を感じる。
何かできると思うこと自体が、すでに傲慢なのかもしれないが。

自分の限界の中でしかできないし、その自分の限界の中であがいたり自分を赦したり他人を赦したりうまくいかないなぁとちょっと絶望したり、そんなことの繰り返しだけど、そうやって自分なりのやりかたを模索することが私にとってのオルタナティブなのだ。

オルタナティブなんてない、オルタナティブをつくってもそれが逆に利用されるとかいう人もいる。でも、そうだとしても、それがどう受け取られるか利用されるかはやってみないとわからないのだし、やってみないと限界だって見えてこない。やってみて限界や矛盾が見えたら、それが次に進むためのヒントになる。
失敗するか間違っているかわからないけれども、ものすごく小さなことであっても始めてみることが重要だと私は感じている。

私は、私の立ち位置だからこそできることがあると信じる。そのことでしか、少なくとも自分自身はエンパワメントされないのだ。だから自分のためにやっているともいえる。

そんなの無理だよ、できるわけないとか言う人がいるけれど、できるかできないかはやってみなければわからないし、やる前からそういう人は確実に人からも自分からも力を奪っている。

権威だとかシステムだとかから何かを奪われていると思った瞬間に、自分自身も力を奪われてしまっている。ほかの人の場合は知らないが、私の場合はそうだ。
奪われているというところに視座を置くのではなく、自分には何かを変える力があるというところから始めたい。

私にはたぶん「アンチ」はできない。
自分自身も、システムだとかこの国のあり方のどこかに加担しているという思いをぬぐいされない。
権力や権威にいる人が全身まるごと悪だとも思えない。
ただの不完全で愚かな人間だというだけで。
愚かだという点では自分とも大差ないから、たぶんわかりあえると私はものすごく楽観的に無条件に人を信じている。

それが私の個性で私の生き方だから、間違っていると言われても変えられないし、この立ち位置からできることもあるはずだと思っている。それを信じていなければ、生きてなどいけない。

あー、ずいぶん、陳腐で当たり前のことを書いている感じもするが、それを自分自身に対してもう一度確認しておきたかった。

こういう当たり前のことを、思いつくままに、これからも少しずつ書いていこうと思っている。

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2008年10月21日 (火)

怒髪

あ~~!もう!スピリチュアル系の人間と関わっていると、ほんと苛立って狂い死にしそうになるよ。
陳腐などこかで聞いたようなことばかり、さもわかったようなふうに、上から目線で言ってきやがる。
そういうの私はもうあんたよりずっと前にさんざん勉強してきて、そういうののばからしさや傲慢さに気づいて、とっとと離れたんだよ!
がまんならなくなって、ちょっと本音で彼らを批判したら、
「心の痛みをわかっている方ですし、今から書くことは余計なことだとわかっていますが、もしかしたら、どこかでご自分の言葉によって傷ついている人もいるかもしれないということを、頭の片隅に置きつつ活動していただけたらなぁなどと思いました。」だってよ。
それが上から目線、余計なお世話だって言ってんだよ。
「あなたのために」「あなたを思って」というスピリチュアル系の人間にありがちな、善意の仮面をかぶった傲慢さが、反吐が出そうなほどむかつく。

死ね、死ね、死ね~!!!と絶叫したあと、それが自分に返ってきたり、生霊となって取り付かれたらこわいから(私も思いっきりスピリチュアル系だのぉ~)、最後に「でも許してやるよ、ごめんな」と言っといた。

さっきそいつから、「機会がありましたら、○○さん(私のこと)の思いをぜひ伺いたいものです。また、いつかお会いしましょう(^^)」と歯の浮くような偽善的なうそくせぇメールが届いたので、「機会はたぶんないと思いますが、お元気で。」という返事を返してやった。

あー、久しぶりに怒髪天をついたよ。
最近なんか温和になっちゃって、というか、あまりにも忙しすぎて怒ることも滅多になかった私なのだが。
怒りたいときは、スピリチュアル系な人と出会うといくらでも怒りがわいてくるということがよくわかった。

今回、腹を立てた相手はホ・オポノポノというのを信奉している人達で、「ありがとう。ごめんなさい。許して下さい。愛しています。この4つの言葉を使うだけで、潜在意識の中で自動再生されている記憶(多層的なトラウマのようなもの)がゼロになり、諸問題が解決して行く。」という。
話していたら、日本は世界の中心でキリストもなんとかも日本で死んだから特別な国だとか、虐待される子供は生まれる前に自分の親を選び、自分を虐待してくださいと頼んでから生まれてからくるとか怒髪天をつきそうなことばかりのたまうのだ。
にこにこと笑って、一緒にそうだそうだと自分を偽り続けるのはもう限界だった。

一度堰をきってしまうと、私の場合、とまらなくないのがいけない癖だが…。
メールでその方々に長々と最初はていねいに、そのうちべらんめぇ口調になって怒りをぶちまけてしまった。

以下、そのメールの一部分。

「私が一番いやなのは、スピリチュアル系の人間が高みに立って、上から「あなたはそれを選んできたのだから」と言う傲慢な態度です。
私はそれを絶対に許さない。
おめぇは何を知ってるんだ。何を知ってそんなえらそうな口を聞けるんだ。トラウマなんて誰にもあるなんてえらそうなこと言うなよ。自分の目で見て自分の耳で聞いて自分が体験してから言ってみろよ、と。

それから、スピリチュアル系の人の選民思想というか、ナルシズムというか、そういうものは大嫌い。
自分は癒す側、わかっている側で、一方に癒される側、まだわかっていない人達がいるという発想。
セラピーをやっている人にそういう人、すごく多いけどね。
自分は癒す側の人間で、歪みや問題のある人をなんとかしてあげるんだと。冗談じゃねぇと思いますが。

スピリチュアルは嫌いではなく、自分も大好きだけど、そういうのは辟易するし、二言目には「愛」とか言い出されるのはごめんだな。
相手が心の中で「ありがとう。ごめんなさい。許して下さい。愛しています」とか考えていたら、私は余計に怒りやトラウマが強まりそうだ。
余計なお世話だと。」

言い過ぎたかなぁ。どうしよう。まぁでも言っちゃったからしょーがない。
祈る前にできることがあるんじゃない、とか、彼らを見ているとついつい思ってしまう。

スピリチュアル系の思想って、ほんと国粋主義や全体主義に結びつきやすいなぁ、善意ってこわいなぁってほんと思う。
それに対していちいちくってかかっている自分も、相当へんな人なのかもしれないけど。

気分転換に『セックスアンドザシティ』のDVDを見ようっと。
こういうのを見ていると、ほんと、アメリカ的な資本主義社会のほうが自分にはずっとあってると感じてしまう…。ホ・オポノポノよりずっと。ホ・オポノポノの提唱者は、アメリカをずいぶん批判しているらしいけど。

『セックスアンドザシティ』は映画ではまり、今、ドラマ版のほうを最初から見始めている。
長い。全部で何本あるのかな。これ毎日見ていると、ほとんど何もできない。
この映画は高橋フミコさんも誉めてるね。
http://www.lovepiececlub.com/eigaranranframeset.html
フェミの人達が好きなタイプの映画なのかな。

あぁ、レズビアンだとかマイノリティの人達と一緒にいるとほんとほっとする。
最近、セクシャルマイノリティでスピリチュアル系の人と出会い、その人と一緒にいるとほんとに楽しい。
わたし、ほんというと、たぶんスピリチュルって大好き。
でもなぁ、多くのスピリチュアル系は女は女らしく、男は男らしくとか、愛は素晴らしいとか、陳腐なことしか言わんのよ。あわねぇ…。

スピリチュアル系のひとびとともうなるべく関わらないようにしよう。
ラジニーシくらいぶっとんでいたら、話は合うのかもしれないけど。

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2008年9月18日 (木)

アネット・メサジェ

そういえば、先週の水曜日には、森美術館で開催されている『アネット・メサジェ:聖と俗の使者たち』を夫と一緒に観てきた。
夫にはちんぷんかんぷんだったようだが、私にはおもしろかった。

女のアーティスト達が、男たちがつくってきた「芸術とはこういうものだ」というのを、どうやって壊していくかを見てみたい。
それが見たくて、女性アーティストをずっとおっかけている。

私の好きな岸本清子についても、いつかこのブログで書いてみたい。

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2008年9月17日 (水)

映画『セックス・アンド・ザ・シティ』その他

きょう、映画『セックス・アンド・ザ・シティ』を観てきた。
知人がおもしろいと言っていたから、きょうはレディースデイだったから、近所の映画館に出かけた。
ところが数週間前のぴあのスケジュールだったものだから、上映時間が違っていて、上映時間まで数時間あったので一度帰宅。でも意地になって、帰ってすぐもう一度出かけた。

で、観た感想は……おもしろかった。
一番驚いたことは、こういう映画をものすごく楽しめている自分自身に対してだった。
昔は、アヴァンギャルドな映画やアート系映画しかおもしろいと思えなくて、この手の映画は退屈にしか感じなかったのに…。
その自分の変化にびっくりした。
しかし、よくできている映画だなぁ。
ドラマの方はまだ見ていないけど、DVDを借りてそっちも観てみよう。

こういうバブリーな価値観がいまだに支持されているということにもびっくりするが、今の私は、こういうのもありじゃない?という心境。
エコ系のストイックさに辟易していた時期だったので。

森達也マイブームがすっかりさめてしまった私だが、つい最近『善悪の彼岸へ』(宮内勝典著、集英社)を読了。
オウムについて書いた本。
おもしろかった。
宮内勝典はカウンターカルチャーの影響を受けた世代のようだが、そのへんの影響を私も結構受けている方なので(世代はもっと後だけど)、彼の発言の背景がよくわかるので興味深い。
私はもともと社会系には余り関心は持てず、自分はフラワーチルドレンの末裔だと思っていた時期があったが、彼は、「世界と、きみ自身との戦いにおいては、かならず世界の側に立ちたまえ。」とフランツ・カフカの言葉を引用している。
そういう気持ちが今ではよくわかるようになった。

だけど、『セックス・アンド・ザ・シティ』をおもしろいと思える自分を絶対に失いたくない。
というか、それを失っては危ういと思うのだ。

他にも幾つか引用したい箇所もあるわけだが、また後日。

人間は本当に色々な思索を重ね、様々な哲学や宗教を構築してきたけれども、結局どこにもたどり着けないのだろうか…などなどと、『善悪の彼岸へ』を読みつつ思っていた。
でも、きっと前には進んでいる。数ミリであっても。少なくとも自分自身は、進んでいる。人からは後退しているように見えても。

クリシュナムルティをちゃんと読んでみよう。
そう思った。

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2008年9月 3日 (水)

レモングラス

このブログに今までへんなことばかり書いてきたような気がして、ブログを消去したい衝動にとらわれたが、ま、いいか、ほんとにへんなんだから仕方ないと思い直す。

このエントリーのタイトルを「衝動」にしようと思ったが、エッチ系だと勘違いされてアクセスされたらいやだから、やめた。

畑で育てているレモングラスをハーブティーにして飲んだらすごくおいしかった。
レモングラス、タイム、ローズマリー、セージなどが雑草のように生い茂っていて、あまりに雑草的すぎて味わう気分にならなかったのだが…。
香りがすごくいい。癒された。

あ~、それにしても、畑がしんどぉ。手放したい衝動もわくが、とにかくこれだけは地道に続けよう。犬は病気を繰り返しながらも、なんとか生きていてくれている。片一方のほうは、目がほとんど見えなくなりつつあるようだが、おいしいものをあげるとウヮンとかわいく鳴く。それがすごく嬉しい。

今おもしろい本をいろいろ読んでいる。感想書きたいけど、余裕がない。いつかまとめて書くかも。
HPつくりたいなぁ…。う~、時間がない。

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2008年8月22日 (金)

近況など色々

心身の状態が低迷&多忙&いろいろなトラブル&夏バテで、ブログがまったく書けない。とうか、ブログの存在自体をほとんど忘れかけていた…。

ブログを書いていない間に海外ドラマのDVD『HEROES』を一気見した。第一話を見たら、とまらなくなってしまい、ほとんど部屋にこもりっきりで、睡眠時間もけずって一気に見た。こういう海外ドラマって、一話の最後に必ず次を見ずにはいられないような終わり方をしていて、やめられなくなる。
夫が『TWENTY FOUR』にはまっているのを見て、さんざん悪態をついていた私だったのだが…。
『HEROES』は超能力者を主人公にしたストーリーなんだけど、なんか見ていてもフィクションって感じがしないんだよね。私の友人の中には、未来の予知をできる人もいるし、私のヒーリングの師匠だった人は人の肉体を透視して細胞のひとつひとつまで見ることができる人だったからねぇ…。
私も少々そういう能力があるらしく、人の考えていることがなんとなくわかったりする…。
このドラマの中で、人が心の中でしゃべっている言葉が聞こえてしまうという警察官がいたけれど…。
で、このドラマで描かれているのは、そういう能力をもっているのはメリットでもなんでもなく、逆に人を生きづらくさせるということで、自分はモンスターで異端だからこういう能力は隠さなくちゃならないと思っている人達の話で、そういう感覚って痛いほどよくわかる。
自分はへんだ、ビョーキだ、普通じゃない、と思いつつ、自分には居場所がないような感覚…。
ということもあって、このDVDにはのめりこんだなぁ。いやぁ、おもしろかった。
しかしこういうのを見始めると、日常が一切ストップして寝食を忘れて見てしまう自分の傾向に困ってしまう。
以前ミステリー小説にはまってしまったときは、当時会社勤めをしていたんだけど、読むのを中断できなくて徹夜で読んでそれでも終わらなくて病気だとウソをついて何度会社を休んだことか。あぁ。
『HEROES』もパート2が始まっているらしい、楽しみな反面、困るんだよなぁ。
DVDやビデオでこんなにはまってしまったのは、エヴァンゲリオン、池袋ウエストゲートパーク、木更津キャッツアイ、以来かな。

他には、ブログを書いていない間に、『めがね』を見たり、『インディ・ジョーンズ』を見にいったりした。本もいろいろと読んだ気がする。おもしろかったのは中村うさぎの本で、この感想については改めて書いてみたい。玉村豊男のヴィラデスト・カフェにも行った。
でも基本的には心身の状態が低迷していて、もうこうなったらきちんと精神安定剤を飲んで治そうと思い、近所の神経科を3つくらいまわった。
それぞれの対応がまったく異なるので、興味深かった。
最初の病院では、生活リズムの乱れが原因だから、睡眠導入剤を飲んで生活リズムを少しずつ元に戻していくのがいいと言われた。
次の病院では、ルボックス(SSRI)を飲むように言われた。カウンセリングを受けるエネルギーはあなたにはまだないと言われた。(私は精神療法を10年近く受けていた人間なのだが…。)
最後の病院では、心理テストやロールシャッハテストなどを受けさせられた。ロールシャッハテストに関しては、以前その技法について解説した本を読んだことがあったけど、それを内緒にして受けた。(しかし、実際にテストを受けてみると、解説書の内容をほとんど忘れていた。)
心理テストやロールシャッハテストの結果は、不安は普通の人より高いみたいだけれど、特に異常はないとのこと。(しかし、どういう状態を異常だと判断するんだろうねぇ…。)
試験をしてくれた臨床心理士の女性からは、「あなたは知識も想像力も豊かで、直感で物事を判断する傾向がある。直感に頼りすぎるが、その直感ははずれていない。ただし、今後の人生ではものごとをもう少しじっくり考え、ゆっくり対処していくことが必要なのでは」と言われた。なんか占いみたいだ。しかしやたら誉められている感じが…。いいのか悪いのか。記憶力が良すぎるのも、あなたを辛くさせているのかもしれない、とかも言われたなぁ。確かに色々な微細な詳細なことまで記憶していて、それはちょっと異常な気が自分でもする。人と話した会話のディティールや相手の表情やそのときに流れていた雰囲気や相手の服装まで覚えていたりする。いつも記憶にあるわけではなく、その人と会っているとそれを思い出したりするわけだけど…。
まぁ、いろいろと感じすぎるときついし生きにくいのは確かだよ。『HEROES』じゃないけれど。だから、自分を麻痺させる方法を色々考えてしまうんだけど…。煙草とか、酒とか、薬とか、自分で自分をウツにするとか…。

で、最後の病院からは、カウンセリングを受けることを勧められた。
3つの病院が、3つとも言うことや方針がまったく異なるということ自体が、非常に興味深く、おもしろい体験だった。
私も精神療法業界のことをけっこう色々知っているし、自分でもセラピーを学んた時期もあるのに、それを隠してこうやって近所の神経科を見てまわるということ自体、かなり根性が歪んでいるなぁ。でも、ほんとにウツ状態や不安状態が強まり、遠くまで治療に行く気になれなくて近所でなんとかしたかったのは確かだったから。

で、3つの病院をみてまわり(こうやって色々リサーチすること自体、私がいかに精神科医や病院というものを信用していないかという証拠なんだけどね)、結果としてルボックスを処方してくれるという医者にかかることにした。
いまさら、精神療法10年近く受けていたことを隠してカウンセリングを受けるわけにもいかないし…。
ルボックスと他の薬も少し出してもらって飲んでいたら、けっこうラクになった。というか、ぼーっとして余計なことを考えずにすんでいる。ラクになれるんだったら、薬でもなんでも使ったほうがいいと思い始めた今日この頃。
自分の精神状態と格闘していても仕方ないしなぁ。

短めに切り上げるつもりだったのに、けっこう長い文章になった。

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2008年7月18日 (金)

あまのじゃくな

http://jp.youtube.com/watch?v=LR314_Cp8Iw
     ↑
イルコモンズ、いい味出してる。

こんどエコビレッジに関する教育カリキュラムのコースが開催されるみたいなんだけど、参加費用が25万円とあってびっくりしたよ、ほんと。
エコビレッジもやっぱり、単なる新しいマーケットのひとつなんだなと思って正直がっかりした。
エコエコって、もういいよって感じ。

『ボランティアオヤジ』の著者・津田政明さんは、この著書のなかで、援助ビジネスということを言っていた。
以前、島田しんすけが、タレントが描いた絵を視聴者の人に買ってもらってそのお金を使ってどこかの国に学校をつくるとかいう番組をやっていたけど、学校をつくっても教師がいないとかそのあとの運営がうまくいかないとかで、学校という器だけが残って役に立たないことが多いというようなことが書いてあったっけ(うろおぼえ)。

援助も運動も、ひとつのマーケットや自己実現の手段として消費されていく。
その矛盾や欺瞞を、自分はいいことをやっているという自己満足の下の下に押し込んで見ないようにして、その行為自体が自己目的化されていく。
その矛盾を自覚しつつ、苦悩してやっているならまだしも、そうじゃないもんね…。

その点、イルコモンズはいい味出してるなぁ。
彼の主張に同意するかどうかはともかくとして。

これだけ多くの人が反グローバリゼーションとか言い始めると、グローバリゼーションいいじゃないとか言いたくなってしまう自分の天邪鬼ぶりは、自分でも持て余しているのだが。

矛盾や欺瞞を自覚しつつ、それでもなお、自分は何かすべきなのか、何ができるのか。
シニカルにこんなこと書いている自分より、間違っていても不完全であっても行動するほうがいいという考え方もある。
わかんないな、まだ、自分には。

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生きてます

ご無沙汰してます。いちおう、生きてます。
全然更新してないのに、アクセス数が減らないのは何故だろう…?

久しぶりすぎて、何を書いていいのかよくわからない。
& ゆっくり長文を書いている時間がない…。

少し前に『ボランティアオヤジ』という本を読んで、これがけっこうおもしろかった。
新宿で、路上生活者の人達と一緒に、掃除したり、炊き出ししたりしている津田さんの自叙伝。彼はいま佐渡で田んぼと畑をやってるんだよね。

そういえば私も、1か月前くらいに佐渡に援農に行ったりもしてきました。
酒を浴びるほど呑まされて、死にました。

とりあえず、こんなところで。
落ち着いたら、またゆっくりじっくりまとまったことを書いてみたいと思ってます。

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2008年5月30日 (金)

パラダイスはないとしても

最近ブログを書く気持ちがまったく起きてこなかったんだけど、
自分と対立する意見の人と話したあとでは、書きたくなるのだ。

昨日話した相手はいわゆる「運動」をやっている人。
全共闘運動や70年代の運動をリスペクトしている人らしい。
しかし私は、田中美津や上野千鶴子が当時の運動を批判しているように、
あれはどうだったんだろうと、そのあり方を疑問視している。

しかし、私が全共闘批判的なことを口にすると、彼は
「社会全体からすれば資本や権力のほうが圧倒的な力を
持っているわけで、そんな内側から冷水かけて得意然
としてるようなのって、結局「敵を助ける」ことになってしまう
感じもする」とか言う。

資本とか権力とかいう、そういう抽象的な悪なんて果たしてあるんだろうか。
敵ってなんなのか。
そんな抽象的なものがこの世界を動かしているとは私には思えない。
迷いや葛藤や欲望を抱えたひとりひとりの人間の総体がこの社会をつくっているのだ。

私の友人には資本側の人も多い。
(だけど、資本ってなに?利潤を目的とした大企業のことでいいの?)
大企業に入って働いている知人達を見ると、とてもいい人たちだ。
というか、優等生が多い。
社会や学校の言うがままに、逆らわず、おりこうに、ただひたすらがんばっている。
いい成績をとることがいいことだと言われればがんばるし、
金を儲けるのがいいことだと言われればがんばるし、
犯罪はいけないと憤り、死刑賛成と言い、安田弁護士をバッシングする…。
まぁそういう普通の人たちです。
世の中の時流に逆らうことをしない。
だから、それが一番あぶないんじゃないの?
私から見れば、全共闘の人達も、資本側にいる人達も、とてもよく似ているように見えるんだよね。

自分と異なる意見や、異端や、場を乱す人を許さないで、
とにかく一生懸命な人。

オルタナティブなビジョンを持たないままの、アンチは危険であると私は感じる。
資本側にいる人だって、悪いことをやっているとは思ってない。
家族や自分のために一生懸命やっているだけでは。
ただ、自分の営みが世界や社会と有機的にどうつながっているのか、それが見えていないんだと思う。
また同時に、どういう他の生き方があるのかイメージできない。
だから自分のやっていることや生き方が間違っているかもしれないと漠然とは思っていても、それをやり続けるしか仕方ない。

自分自身は、そういう世界や社会とは無縁で「白」で、無罪で、無傷で、自分の手は汚れていないのか。
私にはそうは思えない。
なにか幻想の悪があって、それを変えれば社会はよくなるという考え方は無邪気すぎるのではないか。
そういう考え方にのって何かと闘っている方が、自分が「いい人」であるという幻想を抱き続けることができるからラクだけど。

「大学当局とか資本家とか政府当局とかは信用できないみたいな感覚は大事」だと彼は言ったが、そういう発想自体が余りにもステレオタイプな気がしてしまう。
陳腐すぎやしないか。
確かに信用できないが、それは彼らが確信犯的に悪意があるから信用できないのではなく、悪意や意図がないままに民意を吸収し、深い考えもなくなんとなく動いていることが信用できないんだ。
抽象的な悪に責任があると思って観念的に動いているかぎり、何も変わらないだろう。

アンチで、デモをやって、気がすんで就職して、自分の子供たちに受験戦争をさせたのが全共闘世代では?
自分がそこから恩恵を受けている家父長制度や性差別などは温存したままで。

デモに参加して何かやるより、草の根的に、自分がいる場でできることを地道にやっていくほうがずっと難しい。
大上段の平和とか反権力とか言ってる方が、わかりやすいよね。そりゃ、ラクでいいさ。
自分の問題を直視して、自分が変わっていくほうがずっと難しい。
問題は自分の内側にあるのではなく、外側にあるのだとしたほうがずっとたやすい。

しかし、そういうことを私が言っても、話はまったくかみあわない。
安田弁護士を悪だと決め付けている人と、まったく同じ反応。

日本っていう国は、本当に多様性という文化が根付かない国なのだなぁと感じる。
和をもって尊しとするというか。

私は、オルタナティブなビジョンや、豊かさや幸せのオルタナティブを考え、金に依存しない社会をつくることを夢想していたけど、なんか最近どうもそれもなぁ…と思いつつある。
自分の夢想が打ち砕かれつつある。

自給自足のコミュニティで今注目を浴びているところといえば、木の花ファミリーだが、
ああいうところを見るにつけ、私には絶対に合わないと思ってしまう。

自給自足や、分かち合いやつながりを大切にしたささえ合える場がああいうところなら、
自分には絶対にあわない。
清く正しく美しくというのが、自分には絶対にだめだ。
べてるぐらいに、ぐだぐだで何でもありだったら、そういう場だったら生きていけるけど。

自分は何を求めているのだろう、自分が今いる場でできることは一体なんなのだろう、
それがまた見えなくなってきつつある。

結局、完全なパラダイスなんてないのだろう。
この世界はしょせん不完全で、不完全ゆえに美しいのかもしれない。
パラダイスを求めるのではなく、この不完全さのなかにいかにパラダイスを見いだすか。
それが私がこれからやっていくべきことなのかもしれない。

もちろん、自分が社会に対してできるアクションは、地道に少しずつでもやっていくつもりだけど。
不完全さを愛しつつも、それでも前には進んでいく。
でも、既存のやりかたとは違うやりかたになるんだろうな…。

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2008年5月29日 (木)

かたつむり

かたつむり
自分で育てて収穫したカブの葉っぱについていたかたつむり。台所でカブを洗っている時に気付いた。ゆでちゃわなくて、よかった。かわいい!携帯より

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2008年5月26日 (月)

わたくしごと

土、日と伊豆へ田植えに行ってきた。
楽しかったshinesun

連休中くらいから、飼っている15歳の高齢犬のうちの一匹が具合が悪くなってきて、動物大学病院に行ったり、新しい獣医を探したりして病院通いが続きずっと犬にかかりっきりだったから、久々に自然のなかで泥まみれになって気持ちがよかった。
犬の具合が悪くなったのは、今思うと明らかに医原病(医者が処方した薬で悪化した病気)。

検査もせずに間違った薬を出され、それを飲んでから明らかに具合が悪くなって大学病院に行ったら、ホームドクターを変えたほうがいいと言われた。
で、獣医を探したり、新しい獣医を数件回ったりして、やっと安心してまかせられるところが見つかった。
その間に犬が夜中じゅうずっと苦しそうにはぁはぁと息をして眠らず、だから私も眠れず、しかも片目を失明しかけ、夜寝ていたら音がするので起きてみたらいつも私の頭の横で寝ている犬がいなくなっていて探しに行ったら、階段から数段落ちかかっていてさらに落ちそうなところをキャッチ。
夜中にトイレに起きだした犬は、目が見えないため間違って階段から落ちた様子。
ほんと、心臓が縮みあがった。
階段から落ちないように柵をつけたり、いやがる目薬やったり薬飲ませたり、なんかもうふらふら。
しかも獣医に支払った医療費は全部で10万円くらい。
もう先は長くないだろうと思い、犬の葬儀場や霊園などについて調べながら、現段階で既にものすごくウツっぽくなる。

犬が死んで、私の精神状態はたしてもつのだろうか…。

そんなこともあり、かなり精神的に追いつめられていたため、ものすごく心配だったものの、犬は夫に頼んで田んぼに行ったわけだが、行ってほんとによかった。


そんなこんなもありながらも、小説を久しぶりに読んだ。
『在日ヲロシア人の悲劇』(星野智幸)
あっという間に読めたけど、内容的には、自分としてはいまいちかな…。

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2008年5月20日 (火)

はたけ

畑では早くも収穫ラッシュが始まっていて、野菜に追われている…。
最近わかったのだが、自分がなんでこんなに忙しく毎日追われているかというと、畑をやっているからなんだな、やっぱり。
ここ3年間は人生始まって以来の忙しさで、もちろん高齢犬の介護だとか仕事だとかもちょうど重なっていたのは確かだけど、やっぱり畑をやっているということが私の時間をかなり奪っている。
畑仕事自体はそんなに時間を使わないんだけど、とにかく野菜がとれすぎるんですよぉ。
収穫した野菜を捨てるわけにはいかず、遠くに住んでいる友人に配るにはお金もかかるし、近所づきあいはそんなにしてないし、自分でなんとかするしかなくて…。
収穫した野菜を捨てたり無駄にしたりすることにすごく罪悪感を感じ、大根やカブの葉っぱもちゃんと食べようと思ったり、食べられない分は保存食にしようとか思ったりすると、いくら時間があっても足りない。

畑をやっていることは、料理嫌いの自分にとってはストレスのほうが多いかも、なんて思うけどさ、でもやめるつもりはないんだよね。

きょうはカブの葉っぱを洗っていたら、カタツムリを発見。
あやうく料理してしまうところだった。
難を逃れたカタツムリを、携帯で写真に撮り、庭に逃がして、ニマニマしてしまった。
だって、カタツムリ、大好きなんだもん。久しぶりにカタツムリ見たよ。
こういうことがあるから、畑はやめられないんだなぁ。

犬の体調はイマイチで、獣医を変えた。
獣医も人間の医者も当たりはずれがあるから、自分にあった医者を探すのは大事だと思う。

私は今、変化の時なのかな。
長くつきあってきた美容師と獣医と主治医があわなくなってしまって、新しい美容師と獣医にした。
主治医は今探しているところ。

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2008年4月26日 (土)

ほっとした

前のエントリーを書いたあと、綿井さんがブログを更新しているのを発見!
http://watai.blog.so-net.ne.jp/2008-04-26

やめないみたい。よかった。ほっとした。

でも、このネット上での記者会見読んで、けっこう笑っちゃった。
綿井さん、けっこう怒ってるねぇ。

 
Q あなたはこの事件で弁護側や被告人の側に肩入れし過ぎではないか?

もちろん肩入れしています。どんな取材対象でもそうですが、肩ぐらいは入れないと、話も聞けませんし、取材もできません。しかし他のマスメディアはすべて被害者遺族の男性の方にずっと肩入れしているわけですから、報道全体のバランスとしては、ちょうどいいと思います。決して「し過ぎ」ではないでしょう。「肩入れするな」と言う方に対しては、申し訳ないですが対応できません。「するな」と言われると、余計にやりたくなります。今後も同じです。

こういう人間臭いジャーナリスト、大好きだ~。

Q これから君の言うことを信用する人はもういないのでは?

私自身もそれは非常に不安です。しかし敵が100人増えれば、味方も1人ぐらいは出てくるというのが、世の中の不思議なところです。その1人で僕は十分です。可能であればお付き合いいただければ光栄です。「こんな奴には付き合ってられん」という方には、またどこかでお会いできれば光栄ですとしか言えません。それで「さようなら」となるか、「こんにちは」となるかは皆さんの方のご判断にお任せします。

私は味方です!
と書いても、この声届かないだろうし、私が味方になっても余り意味はないと思うが…。

っていうか、人にばかり期待していないで、自分が自分の足場でできることを微力であれ、やっていかなければまずいのではと本当に思い始めている今日この頃。

「世の中の流れや見方が、マスメディアを通じてすべて一方向に流れるときは非常に危険です。それは確信できます。」と綿井さんも書いているが、ほんとそう思う。
私はそれが一番こわい。
今回の事件というよりも、今回の事件に対しての多くの人達の反応…。

本当に震えるほど、こわい。
この恐怖に関しては、自分はあきらかに当事者だ。
自分はジャーナリストでも司法関係者でもないので、自分がこの流れのなかで何ができるのか、考えている。
自分の生活とか生き方とかのなかで、何かできることはないかと。

異質なものが排除・抹殺されていくとき、たぶん、その中には私も含まれる。
だから人ごととは思えない…。

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また疲れました

真実っていうのは荒唐無稽で、けっして理路整然となんてしていない。
理路整然としていられる人間だったら、犯罪なんて犯さない。
(だからと言って犯罪を肯定しているわけでは勿論ないけれど。念のため。)

人は追い詰められたら、常識では考えられないことをやったり、思ったり、考えたりする。
これは自分がセラピーをさんざん受けてきて、自分の体験として思うことだ。
人の心は、理屈や常識とは違う。
理屈や常識のなかで生きていられる人は、ある意味、恵まれている人なのかもしれない…。
事実をそのまま事実として提示したとき、それが捏造であると言われたら、一体どうすればいいのだろう。

そもそも我々が思っているほど、整合性のある状況の中で我々は生きているのだろうか。
人はそんなに機械的に行動しているのだろうか。
それを信じていられる人が、私には羨ましい。
私は少なくとも信じられないし、いつも私が実際に感じていることは既成概念や常識とはずれているし、だから違和感や居場所のなさを感じるのだし、それが狂気なのだとしたらたぶん他の人の理解不能な狂気の中を生きているのかもしれない。
だが一体、狂気と正常の境い目とはなんなのだろう。

いまだに、というか今更、私のブログに常識を逸したコメントを貼り付けてくる人間のほうが私には狂気と感じられるのだが…。

そういう輩に対しては、呪いの念でも送ってやりたい衝動にかられるが、自分にかえってきそうで怖いからやらない。
そういう念って自分も影響受けちゃうみたいだからねぇ。
(またヘンなこと、書いちまった。)

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2008年4月22日 (火)

本当に…?

綿井健陽のブログを読んで驚いた。

もし被害者遺族の男性の言うように、弁護側の主張が「荒唐無稽」であると裁判所が同じように認定した場合、なおかつ検察側の最終弁論で述べられている「当審における審理の結果によっても、被告人につき死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情は、これを一切見出すことができない」と裁判所が同じように判断した場合は、私はこれまでの取材などで書いたこと、発表してきたことなどの責任を取って、すべてのジャーナリスト活動から身を引くことにした。

「すべてのジャーナリスト活動から身を引くことにした」って、本当に?
なんでそこまで…。信じられない…。

『AERA』買って読んだ。読んでるとき、上記のこと知らなかった。

もちろん、まだどうなるかわかんないけど…。

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2008年4月17日 (木)

プチ一段落

せっかく仕事がプチ一段落したのに、いやなことがあって気が滅入っている。
だからまた眠れない…。

今読んでいるのは、田中美津の『かけがえのない、大したことのない私』(インパクト出版)。このタイトルいいね。田中美津っぽい。
感想はまた改めて。

ほんと私、電話が嫌いだ。
電話がかかってきて、話しているとものすごくいらいらしてしまう。
いつも自分の時間があまりないような、いっぱいいっぱいの中で生活しているから、電話がかかってくると侵入的に感じてしまう。
病気で死にそうな犬二匹がいると電話でゆっくり話している精神的余裕がないので、電話は遠慮してください。(電話をくれる人はこのブログ読んでないとは思うけど…。)

しかし、15歳の痴呆の犬2匹がいて、畑をやっていて、仕事もやっていて、一応結婚もしているという状態は、ほんとすごい忙しさです。毎日パニックです。
独身で仕事もやめてヒマな状態の人には、私の状態が想像できないんだろうな…。
だから何回断っても、旅行とかに誘ってくるんだろうなぁ…。

でもとりあえずは多忙の山場を越えたので、DVDをいっぱい見ちゃおう。笑いヨガにも行っちゃおう。酵素風呂とかも体験しちゃお。

話題は変わるけど、グループによって関心が違うよね。
あるグループは映画『靖国』問題で、ラダックとかのグループの関心はチベットで、他にももっとそのグループごとの関心があって…。

私はどこにコミットしていいんだろう。
どこにもコミットできない(したくない)自分がいる。
自分の当事者性から、そこから見ていくことしか私にはできない…。
そこからぶれないようにはしていたい。

あと、みんなが異口同音に大声で誰かを叩いているような場には、わざわざのこのこ出かけていって、それでいいんですかとか余計なことを言いたくなってしまうあまのじゃくな自分。(孤立感を感じるのも当然だな。)

光市母子殺人事件(の報道)については、自分の意見は少数派じゃなくなりつつある。

光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見
http://www.bpo.gr.jp/kensyo/kettei/k004.html

山場は越えたし、そろそろ地に足をつけて自分が本当にやりたいことをやっていこうと思いつつある。
それは、畑でもなく、市民運動でもなく、コミュニティ通貨とか自助グループとかそういうものでもないんだけど…。

そろそろ寝よう…。

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2008年4月15日 (火)

もう深夜ですが…

またまたこんな時間になってしまった。
もう寝なきゃ…。

日曜日に、レンタルDVD『デス・プルーフ』を観た。
いや~、笑った、笑った。
さすがタランティーノ、やってくれたよって感じ。
こういう展開の映画って今までなかったよねー。新しいなぁ。
女がこういう風に描かれた映画がやっと登場したのかと、感慨深い。
北原みのりが絶賛するのも、うなづける。

非暴力系やエコ系やスピリチュアル系の人には決して受け入れてもらえないような映画だろうなぁ。ひっひっひ。
以前、私がタランティーノが好きで『パルクフィクション』はおもしろいと言っただけで、理解不能という表情をされ、改心させられそうになったもんなぁ…。

もう、ほんと、ひっひっひっとへんな笑いをしたくなっちゃう映画なんですよ、ほんと。
ネタバレ的なことを書きたい衝動がわくけれども、こらえよう。
いいなぁ、タランティーノ。さすがだなぁ、タランティーノ。

今読んでいる田中美津の本についても書きたいんだけど、犬が下の部屋でずっと吠えていて近所迷惑だから、このへんで…。
続きは明日かあさってに。

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2008年4月 4日 (金)

忙中

いま、とても忙しく、この忙しさを通過したらやりたいことを紙に書き出しては、自分をだましだまし、なんとかしのいでいる。
やりたいことは30項目くらいになった。
パンを焼くとか、ことこととシチューを煮込みながらワインを飲むとか、泳ぐとか、タランティーのビデオを見るとか、夫が買ってきたWii Fitをやるとか、書き出していったらきりがない。
その項目をこなしたらまた忙しくなりそうじゃん。
きょうは、中休みで近くの温泉にでも行くかなぁ…。
本はいろいろ読んでいる。世の中にはいろいろとおもしろい本があって、読んでも読んでも読み終わらない。読み終わったらこわいけど。

明日は辺見庸さんの講演会に行くつもりで随分前から申し込んでおいたのだけど、やっぱり無理。無理はしないでおこう…。残念だが。

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2008年3月30日 (日)

『アニー・リーボヴィッツ』

久しぶりに映画館で映画を観た。
『アニー・リーボヴィッツ』。
いろんな意味でおもしろい映画だった。

私はアニー・リーボヴィッツという写真家のことも、写真という分野のことも知らないで見たのだが、ものすごくおもしろかった。
それにしても、スーザン・ソンタグとこの写真家がつきあっていたということは、驚きだった。つまり、女性同士の恋愛っていうことだよね?ま、驚くことでもないのだが。

グロリア・スタイネムがしゃべっている映像も初めて見た。
彼女の書いた『ほんとうの自分を求めて』から、私はけっこう影響を受けている。

写真のことはよく知らないのだが、小道具を使ったりして演出をしていくこういうコンセプチュアルな写真って初めて知った。おもしろい。
撮影の様子とかが非常に興味深い。もう一回観たい。

これを見る限りでは、ニューヨークでは、女性アーティストや女性編集者が男性と対等に仕事をできる環境が整備されているように見える。まぁ、一部の才能のある人に限ったことなのかもしれないけど、でも日本よりはずっとましだろう。
そういう意味では、アメリカっていうのはなんだかんだいっても新しい世界観を切り開いてきたことは確かだと思う。功罪はあるにせよ。

アニー・リーボヴィッツ、かっこいいなぁ。

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2008年3月22日 (土)

いろいろと

笑いヨガというのがあるらしい。おもしろそう。こんなおもしろそうなの、行かずにはいられない。行ったら報告する、たぶん。

20日は久しぶりに、セラピー関係の勉強会に参加。
おもしろかった。
病と狂気と魂と心の関係みたいなものに、どうしてこうも強く惹かれてしまうのだろう、私は。
ユング派は河合隼雄が嫌いだったためあまり勉強しなかったが、少し勉強したくなった。
ジェームズ・ヒルマンとかトマス・ムーアとか。
病を深めていって底をつかせることにより魂を変容させるという考え方とかは、ベイトソンに近いかも。
病気は魂にとって意味があるという考え方が私は好きなんだ。
帰ってから家の本棚を見たら、ジェームズ・ヒルマンの本が一冊あるのを発見。
そうだった、以前読んだ時はつまらなくて途中で放り出してしまったんだっけ。
ウィニコットやメラニー・クラインやマーラーの方がずっとおもしろかった、私には。
ネオフロイディアンのものとか。
でも、今だったらユング派の書いたものも読めそうな感じ。(どうかな…)

あ、でも、ミンデルは好きだな、やっぱり。
5月にまた来日するみたいだけど。(高いから行かないけど)
ミンデルのワールドワークの考え方とか大好き。
『紛争の心理学』は何度も何度も繰り返して読んだ。(今は絶版らしい。)
だけどねぇ、ミンデルのプロセスワークを学んで日本でやっている日本のセラピスト達がねぇ、どうも私にはあわないんだよなぁ。
ミンデルはマイノリティやフェミニズムやマージナルな人々のことも視野に入れて活動しているけど、日本のミンデル派の人にはそういう人は余りに少ない。
なんかねぇ…、ま、いいけどさ。


パトリス・ジュリアンの本を今読んでいる。
http://patricejulien.cocolog-nifty.com/
彼は、私が通っている呼吸法のクラスメート。
いつもへんなTシャツを着ているへんなガイジンがいると思ったら、その人がパトリス・ジュリアンだった。
なかなか素敵なおじさまです。

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2008年3月17日 (月)

治療者

数年前に首の治療をしてもらっていた治療者がいる。
鍼灸師でセラピストで操体法なんかもやっている人(私と同年代の男性)。
家から少し遠いのと、予約をしなきゃいけないのとで、ここ数年はご無沙汰だった。
だけど今回、指先の激痛の原因が不明なのでその治療者に電話した。
留守電に予約したいとメッセージを残したら折り返し電話があり、私が電話に出るやいなや、彼は「おぅ、どうした」と言った。
あまりの馴れ馴れしさに私は、「えっ」て感じ。

数年前に治療してもらっていた時、ためぐちだったっけ?
そんなに何度も会ったわけでもなく、そんなに親しいわけでもないのに、「おぅ、どうした」とかまるでしょっちゅう会っている友人みたいに言われるとなんか当惑するのだ…。

会っていない数年間の間に、いつのまにか私と彼との心理的な距離は縮まってしまっていたのだろうか。
不思議だ…。

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