弱さ・傷つきやすさ、で抗うということ
以下、『フラジャイル 弱さからの出発』(松岡正剛著、筑摩書房、1995年初版発行)からの抜書きです。
p330
「自己の境界部分をできるだけ感じやすい状態にしておくということは、もっとわかりやすくいえば泣き虫にしておくということは、社会がかたちづくった勝者や強者の論理に与しないということでもある。つねに自身の半径をヴァルネラブルな傷つきやすさにおいておくということだ。
フランス語では、情念や感情を意味するパッションは、じつは被害をうけて苦しむという意味のパティールから派生した。
仏教では菩薩(菩提薩埵)は悟った者ではなく、最も感じやすく、最も傷つきやすい者をいう。わざわざ如来にならないようにしている者である。菩提薩咤(ボーディ・サットヴァ)のもともとの意味は、本音で救いを求めてくる者を待っているという意味だが、それは、そのために菩薩がみずからを過敏にしつづけている待機者だということなのである。その菩薩の中でも、とりわけ観音菩薩は男でも女でもないジェンダーの本来性そのものだった。」
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フラジャイル 弱さからの出発 著者:松岡 正剛 |
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コメント
フラジャイルとただ単にやる気や根性、忍耐力がない人間とはどうちがうのですか?
投稿: 米津 | 2006年10月13日 (金) 02時45分
米津さん、コメントというか質問ありがとうございました。
これに関しては、答えるとかなり長くなってしまいそうなので、コメント欄ではなく、エントリーのほうでいずれきちんとお答えするつもりです。
簡単に自分の意見を言うと、まず私はやる気、根性、忍耐力といったものを肯定する価値観自体に、疑問をもっているのです。
そもそもそれがいいという自明性はどこでつくられたのか、そこから考えてみるとおもしろいのではないかと。
そういう価値観を相対化するために、フラジャイルや弱さという視点が有効なのではないか、と。
また、私自身がかつて強迫的なまでに努力や忍耐というものに縛られていてその結果ウツになり、ウツになって自助グループなどに通う中でそれとは異なる視点を獲得していったということもあります。
そのへんの経緯もきちんと書いてみたいなぁと、いただいたコメントを拝読して思った次第です。
強さや努力や忍耐というものを手放してはじめて見えてくる豊かさというものが、確かにあった。
それを自分なりにきちんととらえなおして、言語化してみたいと思っています。
ただ私はかなりあまのじゃくな人間でもあるので、世の中の大多数の人がフラジャイルとか言い始めたら、やる気や根性もありじゃんとか言い始めるかもしれません。
その辺もふくめて、弱さやフラジャイルというものについてはじっくりと掘り下げて考えてみたいと思っているし、きちんと書いてみたいと思っています。
コメントいただき、いろいろ改めて考えました。
とりいそぎ、お礼まで。
投稿: 癇癪フロッグ | 2006年10月14日 (土) 02時35分
心の無い人は
傷つきもしない
だって心がないから
無い物は傷つきもしない。
傷ついたと感じる心も無い。
そこで
人を傷付けた自覚もしない。
何故なら
『他人を傷つけて悪い』と感じる
良心もないので
何も
『思わない。』
『何も考えていない』
思う『心』がないから
傷つく『心』もない
だから人を非難するし
やたら傷付けたりするし
傷付けた事を正当化しようとする。
投稿: 心がある人 | 2008年12月23日 (火) 09時11分