ようやくブログを書く気力が戻ってきたらしい。
このブログを知人から「読んでます」と言われ、自分でひいた。
そういえば、このブログを始めた当初は自分のスローライフを紹介するような、ほのぼのとしたブログを書くつもりで平気でアドレスを人に教えていたっけ。
こんな過激な内容を書きまくるブログになってしまうとは自分でも思っていなかった。
だから今では自分のブログアドレスなんて、けっして人には教えてないが。
あの頃アドレス教えたうち、いったい何人、いったい誰が、このブログを読み続けているのだろう。
お~、おそろしい!
まっ、いっか。もう、私はこうゆう人なんだと開き直って生きるしかない…。
こんな私でいいのだろうか、私の本性がわかったらみんな逃げていくのではないのだろうかという不安は相変わらず拭い去れないままだけど。
自分で自分を肯定するしかないし、本当の自分を隠していたら、生きにくいったらありゃしない。本当の自分をだしたところで、これはまたこれで、かなりの生きにくさなんだけど。
4か月半の父の介護で、からだの調子がかなり悪い。カップヌードルとか駅ビルのカレーライスとか、ろくなもの食ってなかったもんなぁ。
そういうのって、本当に顕著にからだに出てくるものなのだなぁと、身をもって体験している。
首も動かず、肩も背中も腰も痛い。壊滅状態の家の片付けもままならず、犬の散歩もずっと行けていない。
なので、ひっきりなしに、鍼灸に行ったり、マッサージに行ったり、日帰り温泉に行ったりしていたら、お金の残高がどんどん減っていった。
きょうは、首がまったく動かないので鍼灸に行った。
ここの鍼灸師とは長いつきあいで、いつも治療を受けながら色々なことを話す。
もちろん父の看護中のことや東大病院のひどさ、弟のこと、父が死んだことなども逐一話してきたわけだ。
だが、きょうは逆に彼のお父さんが死んだときの話を聞いた。
彼のお父さんは82歳で亡くなったらしいのだが、躁鬱病で躁状態のときに貯金を全部使い果たし、葬式費用も入院費用もなかったらしい。病院を抜け出して車を買ったり、息子が鍼灸師なのに整骨院に行ったり、とにかく振り回されてたいへんだったという。彼はひとりっこで、お父さんが病院を抜け出して問題を起こすたびに患者さんをキャンセルして、お父さんが問題を起こしているところに行ってはあやまって問題を治めなければならず、それなのにお父さんからは感謝の言葉ひとつなく、「お前は鍼灸師で先生とか言われているらしいが、それでいい気になっている」とか言われ、もういい加減に死んでくれ!と思ったそうだ(笑)。点滴を何度引き抜いてやろうかと思ったかしれない、とか言っていた(笑)。
それ聞いて、いいなぁ…と思った。
私の父親もそれくらいわがまま言って、やりたい放題やって死んでくれたら、今こんな思いをすることもなかっただろうに、と思って。
私の父親は、病院でも先生の言うことをちゃんと聞いて決して逆らわず、先生にも看護師さんにも母親にも私にも「ありがとう」「ありがとう」とばかり言って、最後までわがままひとつ言わず、贅沢もせず貯金して自分のものは何も買わずに、死ぬ直前まで仕事だけして死んじまったもんなぁ。ちぇ。くそお…。
私とは仲良くもなかったくせに、母親や弟の前では見せないような弱みを私にだけは見せやがって。弟や母親の前では平気な顔をしていたくせに、私の前だけでは涙を見せて、「とにかく生きたい。どんな治療法でも試してみたい」と泣いて言った。
なんでそんなに生きたかったんだろう。生き続けてまた勤勉に規則正しい生活を送り続けるつもりだったのだろうか。生きることにいったいどんな意味を彼は感じていたのだろう。わからない。わからない。
ベッドから起きられなくなってからも、私の顔を見ると嬉しそうににっこり笑った。母親や弟には見せないような笑顔を見せた。母は、「あんな顔、私にも見せたことがない」と言った。なぜだ。あんなに仲が悪かったのに。くそぉ。私をこんな気持ちにさせやがって。
最後の最後まで憎ませ続けてくれて、あぁ死んでほっとしたと思えたら、どんなにラクだっただろう。
ちぇっ。なんだかなぁ。
鍼灸院の帰り道、ずっと涙がとまらなかった…。…。ちぇっ。
ところで、ずっと小説を読めなかったんだけど(小説の言葉がどうしても頭の中に入ってこなかったのだけれども)、なぜか急に小説が読めるようになった。
きっかけは、川上弘美の『神様』という本。最近の小説事情はまったく知らなかったのだが、芥川賞作家だったんだねぇ。うまいなぁ、この人。ひさびさに、テーマではなく、言葉の使い方のうまさで読ませる小説家に出会った。ずっと昔に太宰治の『富岳百景』をよんだときにも彼の表現力に舌を巻いたけど、ひさびさにとにかく上手い上質な小説を書く作家と出会ったという感じ。今は『溺レる』を読んでいるけど、これまた上手くて、思わずうなる。
『神様』という本を手に取ったのは、タイトルに惹かれたから。思えば、小学校高学年のときに遠藤周作の『沈黙』を読んで以来、神というのはずっと私の中心を占めているテーマなのかもしれない。もし神がいるなら、なぜ神は苦しんでいる人を助けないのか、と。なぜ神は傍観しているのか。今は、自分なりにその答は出せているけれども。
母親は父親が死んで以来、近所の渋い蕎麦屋によなよな出向いては酒を呑んでいるらしい。後期高齢者のばあさんが、こじゃれた都心の蕎麦屋でひとり酒を呑む。
そうきたか。
お父さんが生きていたときはお父さんが嫌がったからやらなかったけど、四十九日が過ぎたら社交ダンスとかやってもいいわねぇ、若い頃はよく踊りに言ったのよ、とか、のたまう。どうしてこういう母親から自分のような娘が生まれ出でたのか不思議でならないが、たぶん、社交ダンスに付き合わされることになるのだろう。というより、自分からつきあうことになるのだろう。あぁ、こうやって自分の意思を殺して、昔っから母の期待に応えてきたなぁ。子供の気持ちや思いを想像することがまったくできない人だったから。母を見るといつもなんてかわいそうな人なんだろうと思い、この人の期待に応えられない自分はなんてだめなんだろうと思い続けておとなになった。
母が少しもかわいそうじゃないと理解できたのは、そう教えてくれる精神分析医と出会って以降のことだった。
ま、いっか。さすがに私もおとなになった。社交ダンスにつきあうか。
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