5月13日土曜日に、新宿・ネイキッドロフトで行われた「人権派弁護士批判に答える」という緊急トークイベントに参加たということは、以下の記事で書いた。
5月13日 (土) 「安田弁護士批判に応えるトークイベント」に行ってきた!
http://nervous-frog.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8354.html
5月15日 (月) 安田好弘弁護士バッシングについて
http://nervous-frog.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_43f3.html
感想を書きたいと思いつつ、忙しくて書けないまま既に10日間が経過。
いまさら…という感じもしないではないが、報告や感想やらを少し書いてみたいと思う。
ちなみに、「Kawakita on the Web」の以下のアドレスでイベントの内容が詳しく書かれています。
http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060513
安田弁護士バッシングの原因となっている、安田弁護士が2006年3月14日の第一回の口頭弁論に欠席した経緯も詳しく記述されています。
また、関連記事は以下をご参照ください。
「安田弁護士続報」(元検弁護士のつぶやき)
http://www.yabelab.net/blog/2006/05/18-014800.php
「究極の選択」を迫られる弁護士
http://benli.typepad.com/annex_jp/2006/03/post_12.html
↑上記の記事は、とても心に残る内容だったので、以下に一部分引用させていただきました。
全文は、上記アドレスでご覧ください。
したがって、このような状況に置かれた弁護人として、弁論期日の延期を申し出ることは当然といえます。
裁判所としては、このように既に長期にわたっている事件について、今更判決言渡期日が2ヵ月程度のびたところでそれほど本質的な問題はないので、本来、延期申請に応ずるべきであったと言えます。
しかし、裁判所が延期申請に応じなかった場合、弁護人としては、とりあえず2週間でできる範囲内の書面を書いて提出してお茶を濁すという選択肢と、弁護人が出廷しなければ弁論を開けないということを利用して敢えて弁論を欠席するという選択肢があり得ます。
私は、上記のような「究極の選択」を迫られたときに、前者を選択する弁護士より後者を選択する弁護士を高く評価するのですが、そうお考えにならない方も少なくないようです。しかし、後者を選択することは、別に被害者の遺族を侮辱することでもなんでもないと私は思ってしまいます。精一杯被告人を弁護することが被害者の遺族を侮辱することであり許されないことだというのであれば、「弁護士による弁護」というシステムを刑事裁判制度からはずして頂きたいと思います。
さて当日の様子ですが、発言者は、宮崎学(作家)、魚住昭(ジャーナリスト)、二木啓孝(日刊ゲンダイ)、宮台真司(社会学者)、佐藤優(外交官)、佐高信(評論家)、中村順英(日本弁護士連合会前副会長)。(敬称略)
ふだん新聞も読まず世の中の事象にうとい私は、佐藤優という人のことを知らなかったので、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』調べてみました。
埼玉県生まれ。埼玉県立浦和高等学校、同志社大学神学部卒業。同大学院神学研究科修了後、1986年ノンキャリアの専門職員として外務省に入省。1988年から1995年まで在露日本大使館三等書記官。その後国際情報局分析第一課へ勤務。主任分析官(課長補佐級)として活躍。
2002年2月22日、外交史料館へ左遷される。2002年5月14日、背任容疑で逮捕。同年7月、偽計業務妨害容疑で再逮捕。2004年10月、保釈。2005年2月に執行猶予付き有罪判決を受ける(現在控訴中)。一審判決で執行猶予がついたことを機に、捜査の内幕や背景などをつづった『国家の罠』を出版し大きな反響を呼んだ。
外交の第一線で得た経験と該博な知識を生かし、新聞・雑誌などに外交評論を多数執筆している。
( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%84%AA_%28%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%29)
★まず、トークイベントで心に残った発言内容を以下に記してみたいと思います。
(なるべく、「Kawakita on the Web」の中で書かれていないことを。)
「Kawakita on the Web」のまねをして、私も明記させていただきます。
※要注:以下のものは私が見聞きしてきたことを書き留めたものであり、発言者の真意を正確に反映しているとは限りません。
また、当日つけていた簡単なメモだけをたよりに書いたものなので、間違っている可能性もあります。
佐高信については、自分のブログでちょっとだけ触れたことがあるけど、
http://nervous-frog.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_6b2b.html
このイベントの帰りに思わず「週刊金曜日」を買ってしまった。
(佐高信さんは「週刊金曜日」の社長。好きだな、この人。)
●佐高信が言ってたこと。
人殺しをいつまで弁護するのかという論調がマスコミにある。
誰かが言ったことに対して、自分も遅れないように声を上げるそのお先棒を新聞記者がかついでいる。
自分の頭で少しは考えてみろ。
新聞記者はゆすり・たかり・強盗の類なのに、その覚悟がなく、自分は上品な仕事をしていると錯覚している。
そもそも善悪って誰が決めるのか。それを考えていくことが必要。
何でもかんでも安田に持っていくけど、安田を限界以上に闘わせてはだめ。
●宮台真司が言っていたこと。
不安になった人をあてこむ不安産業がマスコミと政治家。
メディアは不安を増幅している。
安田さんや麻原弁護団にやることが集中しすぎていて、メディア戦略に手がまわっていない。
人が足りない。我々がコネクションをつくってやっていかなければならない。
司法修習生にもイエスマンが増えていて、検察や司法もポピュリズム戦争(人気戦争)に抗いがたい状況にある。
左翼の権力観のように、権力は一枚岩じゃない。
今は、情報管理行政の利権が問題。
大ボスがいなくて、不安をベースにした草刈場的なゲームを、政治家・マスコミ・民間・官僚の4者がやっている。
↑
情報管理行政の利権という辺りのことは、竹山徹朗氏のブログに詳しく書かれています。
▼宮台真司は、ニッポンには「歴史的リソース」=「国民が連帯して国家をねじ伏せた経験」を持たない、という決定的な弱点があり、それをカバーするためにも個人的に「国権的ゲームを行えるネットワークを構築するために努力しているが、未だ非力である」という、従来の彼の言論を再説していた。
▼また、「情報管理行政」、そしていわゆる「不安産業」の一環として、保坂展人らが追及している、アメリカ企業が拡大している「入管生体情報」をめぐる利権についても紹介していた。
詳細は、http://takeyama.jugem.cc/?eid=525#sequelで。
佐藤優さんは、4年前の5月14日にぱくられたそうだ。
だから言ってることにすげぇリアリティがある。
「アエラ」がまず佐藤さんを叩き、それから「月刊現代」と続き、翌年大きな事件に発展したのだと。
母胎となったのは、「アエラ」の記事なのだと。
マスコミに郵便物もゴミも盗まれたんだって。
こわい…。
●佐藤優が言っていたこと。
山口母子惨殺事件では遺族を嘲笑するような被告の手紙が出ているが、手紙は検閲を通さなければならないはず。
それなのにああいう手紙が外部に出るというのはおかしい。
死刑囚は、環境に順応するタイプと反抗するタイプに分かれる。
獄中のような環境で、過去の犯罪の反省はできない。
日本の場合は、起訴されたらほとんど有罪になる。(こんな国はない。)
弁護士が悪人を弁護しているということで叩かれるということに対する危機感は、鈴木宗男など保守陣営のほうが強い。
●中村順英が言っていたこと。
いま起こっているのは、刑事弁護叩き。
善悪の二項対立が強まっている。
犯罪への恐怖心が必要以上に煽られている。
司法がポピュリズムに抗しがたくなっている。
若い弁護士ですら、倫理と法をごちゃまぜにしている。
二項対立の風潮や悪玉を排除するには何でもありという風潮の中で、向こうの正義にこっちの正義を対立させるだけではだめなんじゃないか。
●宮崎学が言っていたこと。
悪人を弁護する弁護人は悪いんだから、いっしょにぱくっちゃえという世の中の動き。
テレビのコメンテーターが、テレビで先に判決を出している。
テレビのコメンテーターはそんなにえらいのか。
「人として許せない」と言うが、それを判断するのは神様しかいない。
コメンテーターが神様になっていて、八百万の神様的状況だ。
●二木啓孝が言っていたこと。
えもいえない安田さんへの圧力と共謀罪は結びついている。
個人情報保護法、通信傍受法、住基ネットなど、天井がものすごく低くなっている。
悪は徹底的に悪いというポピュリズムはテレビが醸成している。
テレビ朝日は、北朝鮮や拉致問題を一日中流している。
つぶしちまえみたいになっている。
映像のもつ訴求率の強さを、作り手は意識していない。
視聴率やスポンサーのことばかり考えていて、みのもんたに勝てるかどうかくらいの意識しかない。
色々と省略しましたが、自分の心に残っている発言だけ記しました。
その後、質疑応答の時間へ。
質問に応じて上記の発言者が色々答えているのですが、誰の発言なのかメモしそこねてしまったので、発言者の名前は省略します。
●マスコミは覚悟がないのではないかという会場からの質問に対して。
皆怒るんだけれども、自分が何かするのではなく、国家よなんとかせよとなる。
安田を許すことができなければ、じゃあお前どうするんだというところがない。それがポピュリズム。
メディアなんてもともとポピュリズム。
覚悟のある言論人ばかりだとこわい。
言論の世界はある程度ふまじめでいい。
じゃないと日本刀を持ち出すことになる。
けしからんと思うんだったら、自分に何ができるか考えるべき。
マスコミに覚悟を求めすぎる。
覚悟があるようなフリをするのが、猪瀬直樹みたいな人間(笑)。
記者に必要なのは、覚悟じゃなくて好奇心。
好奇心がなくなってきている。
他の人がみんな行っているようなところに行って商売になるのか。
産経の社長のスミタは「少数派になれ」と言った(笑)。
朝日新聞は少数派になることを怖れている。
日刊ゲンダイは、オウム事件のとき、ロシアルートなど色々なことを書いてオウム事件の外形をぼやかしてしまった。
その反省があるから、ライブドア事件については野口他殺説を一言も書かなかった。
●その他の質問などに答える形で、出てきた発言。
テレビを消して活字を読むことを、子どもに教える。
活字を頭の中でいったん咀嚼して、テレビに対する耐性をつける。
『ゾウの時間ネズミの時間』という本があるが、大衆的なクロックで生きることもできるし、人と違うクロックで生きることもできる。
皆がテレビを見ている時は違うものを選び、クロックの異なる振る舞いを選ぶ。
そのことが、尻馬勝ち馬に乗るゲームを中和させる。
テレビや活字は信用しない。猜疑心を持つこと。
メディアは疑え。新聞なんて正しいのは日付だけ。
書いてあるのは、判断材料の素材だけだと思ったほうがいい。
今起きているのは、官僚が手抜きをしはじめたということ。
厳罰化や裁判の迅速化という二大命題の実現を、今回の事件を素材にしてやろうとしている。
ライブドア事件も、目障りだからいきなりやっちゃえという手抜き。
市民が地域の住民よりも警察によって自分を守ってほしいと思っている。
プライバシーを重視するから地域内の助け合いはない。
その一方で、警察には全部知っていてほしいと思っている。
DV法やストーカー法も警察の力を肥大化させているのではないか。
吉野の後醍醐天皇陵を訪れたとき、吉野の山伏が言っていたのは、多元的なのが国体であって、人の固有性を大事にするということ。そういういい加減な国が日本であって、一元化してきれいな国にしようというのは日本じゃない。自分達は何があろうとも日本の多元性を守る。
★長くなったけれども、以上が報告です。
冒頭にも書きましたが、いい加減にとったメモとうろ覚えの記憶をたよりに書いた報告なので、間違っている可能性も多いかと思いますが、その点よろしくお願いします。
こういうイベントの記録をブログに書いていいかどうか迷いましたが、この手の情報が余りに少なすぎるので、あえて書かせていただきました。
おそらく主催の宮崎学氏もお許しくださることでしょう。
上記の報告にもありましたが、マスコミに期待したり盲信しすぎたりするのではなく、自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の頭で考え、それを自分の言葉としていくことが重要かと思っています。
なのでこのようなつたない報告ではありますが、記述した次第です。
★自分の感想
「死刑囚は、環境に順応するタイプと反抗するタイプに分かれる。
獄中のような環境で、過去の犯罪の反省はできない。」という、佐藤優氏のコトバには心動かされた。
なぜかというと、私もたぶん、徹底的に反抗するタイプだからだ。
この佐藤優氏の言葉を聞いて、被告がなぜ遺族を嘲笑するような手紙を出したのかが、ほんのちょっぴり理解できたような気がする。(だからといって、決して許される行為ではないが。)
「獄中のような環境で、過去の犯罪の反省はできない。」という言葉もうなづける。
アミティという、米国・アリゾナ州を拠点とする犯罪者やあらゆる依存症者の社会復帰を支援する非営利団体がある。
私は、ここの考え方に非常に共感する。
スタッフの多くは以前受刑者だった体験をもつ者達であり、彼らが自分の罪と向かい合いトレーニングを受けカウンセラーとなって、そして別の受刑者が心と向かい合うサポートをするというシステムだ。
以下、アミティのHPより。
http://www.cain-j.org/Amity/W_Amity.html
「警察、裁判所、刑務所と、行く先々で『被害者にしたことを反省しろ』と言われ続けてきたけど、いったい何をどのように反省していいのかわからなかった」と彼らはロにします。アミティによると、多くが子ども時代に何らかの虐待を受けており、その記憶を抑圧することによって他人への共感や反省が生まれにくい状況が作り出され、よって犯罪や自傷行為に至るのだといいます。
DVなんかでも、加害者の心の問題なんか考えなくてただ罰すればいいとかいう考え方も多いけれども、加害者や犯罪者の心の問題をきちんと見ていかなければ、犯罪はなくならないだろう。
そして更正しても、行き場がなかったら、犯罪は繰り返されるだけだろう。
そういう意味で、上記のアミティのような考え方をもっと取り入れてもいいと私は思っているのだが。
上野千鶴子さんが、加害者が自分の被害者性を認めることの意義について、『リブという<革命>』の中の「フェミニズムと暴力」という対談の中で述べている。
p45
まず、自分が被害者だということを受け入れたときに初めて、加害者だということを認めることができるようになる。順番はこの逆ではない。被害者に対する共感や想像力は、自分もまた被害者であるということを認めたときに初めて生まれる。
(中略)
自分がペイシェントであることを自覚する、自らその当事者性を引き受けるということです。DVについては本人が被害者であることを認めること事態が大仕事なんです。ましてやDVの加害者であることの当事者性の獲得はもっと困難です。
それから、佐高信氏「そもそも善悪って誰が決めるのか。それを考えていくことが必要」、中村順英氏「善悪の二項対立が強まっている。二項対立の風潮や悪玉を排除するには何でもありという風潮の中で、向こうの正義にこっちの正義を対立させるだけではだめなんじゃないか」という言葉も、心に響いた。
森達也もそれをずっと言っている。
『ご臨終メディア』では、メディア批判がなされていて、おすすめ。
そういえば、森達也と斎藤貴男がこのイベントにメッセージ出演すると告知されていたのに、なかったなぁ…。まぁ、いいけど。
私は、子どもの頃新聞を読みなさいとかよく言われたけど、結局読まないで生きてきた。
(こんなことで威張っててもしょうがないんだけど。)
だから気がつくといつのまにか少数派になっていたのかもしれない。
かつては、自分の考え方ってへんなのかなぁ、なんでこんなに異端なんだろうって悩んだこともあったけど、今回のトークイベントを聞いてこれでいいのだとへんに居直れた。
新聞も雑誌も読まず、テレビもほとんど見ず、情報は書籍によって収集し、興味のある人の話は直接聞きに行くことにしている。
だからもしかしたら、あまりぶれないでいられるのかもしれない。
そのせいで、だんだん少数派になっていって孤立感も強まっているんだけども。
それから、やっぱり、マスコミだとか国だとかに期待しないで、自分で何かをやっていくことが大事だなぁと改めて思った。
自分ひとりでは変えられないと思っているかもしれないけれども、世の中を変えていったのは、ごくひとにぎりの変わり者なのではないか。
とにかく、先入観や既成概念をはずして、自分にふさわしいやりかたでひとりひとりが情報発信したり、自分にできることをやっていくことが大事なのではないかと思う。
人に期待したりしないで。
そう思うからこそ、臆面もなくこんなブログを書いてもいるわけなのだが。
「言論の世界はある程度ふまじめでいい」という発言も共感できる。
きまじめさやストイックさって、ある意味で危険だと思う。
「吉野の後醍醐天皇陵を訪れたとき、吉野の山伏が言っていたのは、多元的なのが国体であって、人の固有性を大事にするということ。そういういい加減な国が日本であって、一元化してきれいな国にしようというのは日本じゃない。自分達は何があろうとも日本の多元性を守る」という発言もあったが、さすが吉野の山伏だなぁ。
いい加減さって本当に大切だ。
自分と他の人との違いを認める寛容さにもつながってくる。
「記者に必要なのは、覚悟じゃなくて好奇心」というのも大事なことだと思う。
関心や好奇心って、けっきょくのところ、対象に対する「愛」だと思う。
理解したいという気持ち、もっと知りたいという気持ち。それが愛なんだ。
ずいぶん長くなってしまった。
まとまりのない報告と感想だが、そろそろ犬に晩御飯をあげなくちゃ。
ほったらかしてたから、下の部屋で今吠えている。
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