会食と映画鑑賞
昨日は、久しぶりに会う友人ふたりと一緒にランチ。
有機野菜を使っている小さなレストランで、パスタや前菜を味わった。
この店はときどき自分でも行くんだけれども、手作りパンとワインがとにかくおいしい。
湯気が出ているつくりたてのパンだけで、いくらでもワインが飲めてしまう。
もちろん料理もおいしいのだけれども。
なので、昼にも関わらず、思わず赤ワインをオーダー。
食事はおいしかったし、久しぶりに会う友人とのおしゃべりも楽しかったけど、それでもやっぱりぐったり疲れてしまった。
人と会うという行為は、どうして私からこんなにもエネルギーを奪うのだろう。
たとえ楽しくても。
食後に入ったコーヒーショップで、ものすごくいっぱいタバコを吸ってしまった。
だから喉が今すごく痛い。
タバコなしには、人と一緒に同席していられない。
緊張しているのか無理しているのか、よくわかんないけど。
1~2日は何もできそうにない。
以前は疲れていてもそれを自覚することなく人と会い続けていて、ある日急にエネルギー切れになるというパターンが多かったが、今は自覚できるからゆっくり休んで気力を回復することができる。
友人と別れた後、ひとりで新宿に映画を観に行った。
観たのは『紀子の食卓』。
観た感想を一言で言うと、正直言ってこの映画は自分の好みではない。
なんというか、作り手(監督)のナルシズムがやたら鼻につくのだ。
この人は映画を愛しているのではなく、自分を表現したいだけなのだろう。
たとえば『メゾン・ド・ヒミコ』だったら、ストーリーとは関係ない映像やカットが美しく、それだけで楽しい気分になる。
世界に対する愛、映画を構成している細部に対するこまやかな愛が映画の周縁からにじみでている。また、脚本や役者への愛も。
たぶん、犬童一心は出会いというものを大切にする監督なのだ。
こういう映画をつくりたいという自分のビジョンが当初あっても、脚本や役者や現場の風景と出会う中で自分自身の思い込みやありかたがゆらぎ、そのゆらぎ自体が美しさとして映像に定着されている。
だから私はあの映画を観て、ひどく心がかき乱されたのだ。
だが、『紀子の食卓』の場合、監督の「オレが、オレが」という自己主張ばかりがやたらと鼻についてしまうのだ。
家族というものの描き方についても中途半端だ。
私はセラピーの現場で家族の問題を抱えている人たちの話を、セラピーを受ける同じ仲間としてたくさん聞いてきたけれども、現場はもっとリアルでなまなましい。
だからといって、この映画がフィクションとして跳躍できているとも思えない。
家族を描いた映画としては、『ゆらぐ』のほうがずっと優れている。
表層的なやりとりの下にある、見たくないような葛藤だとか感情だとかが実に丹念に映像に描かれている。
たぶんそれは監督が、出演した役者達とていねいな対話や共同作業を重ねた結果できたものなのだと私は思う。
映画は個人の力技でできるものではない。
ま、あくまでも個人的な好みだけれども、私にとっては余りおもしろいとは思えなかった。
なので、途中20分くらい爆睡してしまった。
でも、私が好きだろうが好きでなかろうが、いろんな映画があっていろいろな表現があるっていうのがいいよね、たぶん。
自分の好みの映画ばかり観ていてもつまらないもの。
自分が「これはちょっと違うなぁ」という映画もあって、それを観ることによって自分の趣味嗜好もよくわかってくる。
自分にとって好みじゃないからといってそれに価値がないと決めつける姿勢には、あくまでも抵抗する。
| 固定リンク | コメント (1) | トラックバック (0)


最近のコメント