カテゴリー「文化・芸術」の30件の投稿

2008年9月18日 (木)

アネット・メサジェ

そういえば、先週の水曜日には、森美術館で開催されている『アネット・メサジェ:聖と俗の使者たち』を夫と一緒に観てきた。
夫にはちんぷんかんぷんだったようだが、私にはおもしろかった。

女のアーティスト達が、男たちがつくってきた「芸術とはこういうものだ」というのを、どうやって壊していくかを見てみたい。
それが見たくて、女性アーティストをずっとおっかけている。

私の好きな岸本清子についても、いつかこのブログで書いてみたい。

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2007年5月17日 (木)

宮沢章夫『考える水、その他の石』

宮沢章夫の『考える水、その他の石』の中で、大爆笑したところは…

つかこうへいの舞台についての文章なんだけど、以下に引用。

p118
台詞の端々に“居酒屋のおやじの会話”的な言葉が散りばめられる。「人間ってそんなもんじゃないでしょ」的な、「俺に言わせりゃ女なんてものは」的なとでも言おうか、やだな俺、そういうの。いわば“おやじ的な世界観”とも言うべきもので、こうした言葉は私たちの“おやじ性”を抉りだそうとする。それは意図されたつかこうへいの狡智か。それともつかこうへい自身の“おやじ性”か。おそらく後者だと私は思うのだ。

映画監督が女優を言葉でいたぶる場面がある。止めに入った者たちに監督は言う。「いいんですよ。この女、俺の前の女房なんです」。その決まったところで音楽がドーンと入るという、この場面は笑ったなぁ。笑う場面じゃないけど。これぞつかこうへいだもん。逆説的な愛情の表現。これぞ男という。笑ったなぁそれにしても。

                            
上の引用部分の太字にした部分が、思わず深夜に大爆笑してしまった箇所なんだけれども。
ここだけ読んでも笑わないかもしれないけど、ずっと読んできてこの言葉があると、ほんと笑う。
つかの芝居を見たことがある人なら、笑うよなぁ、これ。

それにしても、辛辣な批評が続いていて、しかもその辛辣さが微妙な笑いを誘う辛辣さで、しかし書かれたほうはたまらないだろうなと思う内容で、なんかすごいな。
第三舞台について書かれた「三万人は一人である」も、いや、なんというか、そうだなぁと思いつつにやにやしてしまうのだ。
だけど褒めている劇団なんかもあり、第三エロチカは見たことがなかったけど、是非見てみたいと思わされた。

                         
まえがきもいい。

なにものにも奉仕せず、「考えることの合理性」にも意義を唱え、あらゆる関係性を否定する。そのことではじめて「考えることの冒険」は成立する。私ならそれを「思考の冒険主義」と呼ぶだろう。
(中略)
「考えるより動け」という決まり文句に対置させるなら、そのことを、「立ち止まれ」という言葉で表現したい。
不意に立ち止まることにこそ、現在を脱力させる方法がある。

役に立つことや意味のあることのみが、重要であり価値があるとされる。
清田君のスプーン曲げを、ただ曲がったスプーンが増えるだけで意味がないとある人が言ったが、意味がないからいいんじゃないかとひとり心のなかで呟いたことがある。
役に立つことばかりになったら、世の中、おしまいじゃないか。

「なにものにも奉仕しない」思考。
それを擁護する宮沢章夫が私は好きだ。
               

考える水、その他の石 Book 考える水、その他の石

著者:宮沢 章夫
販売元:白水社
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2007年4月23日 (月)

『ニュータウン入口』の追加感想と、きょう思ったことなど

宮沢章夫の日記を読んでいたら、『ニュータウン入口』リーディング公演について「多くの人が「まったくわからない」と感想を語るなか…」と書かれてあった。
http://www.u-ench.com/fuji2/index.html

私は、ひとつの結論に収斂されていかないところがおもしろいと思ったのだが…。

それから、宮沢章夫の芝居については、役者の配置などの構図的なおもしろさがあるように思う。
そういう部分をかなり意識してつくっているのではないか。
『鵺/NUE』のときにもそれを感じたのだが。
そういうことを意識的にやっている演出家って小劇場系のなかでは少ないのではないか?
(私が勉強不足で知らないだけかもしれないけど)。
デザイン、構図、構成に、従来の芝居にはない新しいものを感じる。
ある意味私はテーマとか内容とかはどうでもよく、ディティールを積み重ねてひとつの世界観をつくりあげる美的なセンスにすごく惹かれる。
さまざまな要素が、コラージュのように重ねられていく感じ。
テーマは、いろいろな人が各々のスタンスで自分なりに解釈できるような自在さがあり、そういう自由さが私には心地いい。
テーマや主張を押し付けてくる芝居って、うっとおしいもんね。

                                 
ところで話題は変わるが、きょうは仕事で人と会っていて、非常にいらいらさせられたのだった。
人を見下した感じ・雰囲気というものが私はがまんできない。
以前はそういう時に感じる苛立ちを必死におさえていたのだが、いまではもはや抑えられなくなってしまった。
しかし、その苛立ちをあらわに表現したことで、結果としておもしろい対話が成立した。
自分にウソがつけないという傾向が日増しに強まりつつある、今日この頃だ。
いいのか悪いのかよくわからんが、そういうふうにしかできない。
自分も他人もだませなくなっている。
                  

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2007年4月22日 (日)

宮沢章夫作・演出『ニュータウン入口』と、読売アンデパンダンのことなど

昨土曜日の夜は、肋骨が骨折していて痛いにも関わらず、宮沢章夫作・演出『ニュータウン入口』のリーディング公演に行ってきた。
  ↓
http://www.u-ench.com/newtown/index.html

「プレビュー(1)・(2) +本公演」というチケットを既に購入済だったので、骨折で痛いからどうしようと迷ったものの、出かけたわけである。
私にとって、7500円という出費はかなり痛い。
それでも宮沢章夫の芝居が見たかったわけで、だから骨折しているのに行ったわけだ。

リーディング公演というのは初めて見た。
おもしろかった。
宮沢章夫ってどうしてあんなに表現が洗練されているのだろう。
すごく美しい。言葉も、芝居の構成も、音楽も。
宮沢章夫は美大出身で、デザインや建築や美術にも関心を持っていて、音楽にもすごく詳しい。
そういった彼のひきだしが、芝居というフィルターを通して出てくる。
そのひきだしのなかには、政治的スタンスや人間に対する愛のようなものもある。
役者もよかった。
とくに一人二役やっている佐藤拓道という役者が。うまいなぁ。

ポストトークもおもしろかった。
宮沢章夫、いいなぁ。好きだなぁ。
けっして偉ぶらないで、少しも無理をしていない。

ポストトークで観客から意見を聞き、それを芝居に反映させていくというやり方も好きだ。
私は読売アンデパンダンのように、観る側が作品に巻き込まれていき、ただ傍観しているだけではいられなくなるような作品が好きなのだが、そういえば宮沢章夫も赤瀬川原平のハイレッド・センターに触発された方法でワークショップをやっていたとか、どこかに書いていたっけ。

                  
ハイレッド・センターとは…

ハイレッド・センターは、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の3名により1960年代前半に結成された前衛芸術グループ。真紅の「!」がシンボルマーク。
(中略)
その活動は、オリンピックを前に警戒が高まる東京の路上で、秘密組織的な印象を漂わせた行動を起こしたり、逆に過度に公的機関の重要事業を装ったりと都市を撹乱するもので、路上・電車の中・ホテルなどの日常的な場所で非日常的な行為を行う過激な「イベント」で美術ジャーナリズムだけでなく週刊誌など世間の注目をも集めた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

                     
ハイレッド・センターを、ぜひウィキペディアで検索してみてください。笑えるから。
「主な活動」の中に、以下の項目がある。

首都圏清掃整理促進運動
東京オリンピック前の銀座の街頭に清掃運動中の看板を立て、メンバー全員白衣にマスク姿で、通行人のうさんくさげな視線の中、マンホールやアスファルトなどを雑巾や薬品で不必要なまでに清潔に磨き上げた。

    ↑
いいなぁ。笑えるなぁ。この無意味さが好きだなぁ。私もやってみたいなぁ。
でも今やったら絶対つかまるかもね。

読売アンデパンダンについては、赤瀬川原平著の『いまやアクションあるのみ! <読売アンデパンダン>という現象 』という本で知ったんだけど、絶版みたい。
でも、ちくま文庫から出ている赤瀬川原平著『反芸術アンパン』のほうはまだ読めるみたい。

           
こんなこと書いている場合じゃないんだった。
肋骨は痛いし、それなのに明日は仕事で出かけなければならない。
その準備もしなければならないのに、まったく何もやってない。
今日はもう寝て、明日朝早く起きてやることにしよう…。

Book 反芸術アンパン

著者:赤瀬川 原平
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する


                

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2007年3月10日 (土)

『僕たちの好きだった革命』を見てきた

水曜日に、鴻上尚史作・演出の『僕たちの好きだった革命』を見てきた。
鴻上さんの芝居見るの、久しぶりだなぁ…。
何年ぶりだろう。
私は、彼が早稲田大学構内にテントをはってやっていた頃の芝居を見ている、そんなに多くはない人間のうちのひとりだと思う。
劇場で芝居をやるようになってからは、数回しか見ていない。
というか、芝居そのものをもうずっと見ていなかった。

昨年1月に大学時代の男友達(芝居仲間)が名古屋から野田秀樹の芝居を見るために上京し、チケットをくれるというから一緒に見にいったのが、本当に久しぶりの観劇だった。
だがその野田秀樹の芝居を見て、やっぱり芝居はもういいやと思ってしまったのだ。
(私を誘ってくれた男友達はおもしろいと言い、こういうのを見るとまた芝居をやりたくなると言っていたが。)
で、もう芝居を見るつもりもあんまりなかったのだが、昨秋、宮沢章夫の『鵺/NUE』を見てすごく興奮し、もっと芝居を見たいなぁと思うようになりその流れで鴻上さんのチケットを久しぶりに取ったのだった。

で、感想はと言えば、宮沢章夫の芝居を見た後ではなんというか、垢抜けないというか、古い演劇を見ているような感じがした。
もちろん昔よりずっと金をかけてはいるし、練れてはいるんだけれども、やっていることは昔と変わっていない。
こうしてみると、宮沢章夫のやっていることってすごく新しいし、非常に非常に洗練された芝居だったんだということが改めてよくわかった。
宮沢章夫のあの新しさってなんだろう。
岡田利規も新しいことをやろうとはしているんだろうけど、なんか垢抜けない…というか、しょぼい。
もしかしたら、それが狙いなのかもしれないけど。

だけど、主演の中村雅俊はうまかったなぁ。
さすがに存在感があるなぁ。
あの脱力加減がすごい。(やる気あるの?ってぐらいの脱力感。)
小劇場出身の役者には、あの脱力具合は出せない。みんなやたらと力が入っていて。
劇中でフォークソングを歌う場面があるのだが、それも聞かせるし。
GAKU-MCは浮いていたけど。

それにしても、なんでこんなにチケットが高いのか?
5千円以上する芝居には、もう行かない。

            

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2007年1月24日 (水)

ピースミュージックフェスタ!辺野古'07

1月20日(土)にソウル・フラワー・モノノケ・サミットのライブに行ったということはこのブログにも書いたけど、2月24~25日に沖縄でPeace Music Festa! 辺野古'07というのがやるらしい。
お金が足りないと言っていたので、宣伝を。
私が宣伝してもほとんど影響力はないと思うけど…。
ソウルフラワーも出ます。
沖縄にいれば私も行くんだけど、飛行機使って行く余裕がない。

以下、その詳細がわかるHPとブログのアドレス。
http://peace-music.org/
http://peacemusic.ti-da.net/

2007/2/24(土)
沖縄 Peace Music Festa! 辺野古'07

■出演;ソウル・フラワー・モノノケ・サミット/DUTY FREE SHOPP./ドーナル・ラニー with 梅津和時/近藤ヒロミ/照屋政雄 with 仲本興治/寿[kotobuki]/Shaolong To The Sky/YOUL & Amina/COCOTABO/ノマ アキコ[GO!GO!7188]/TRINITY club BAND/うつみようこ/Cyclub★/勢理客オーケストラ
■OPEN 12:00/START 12:30/END 20:00 (雨天決行・荒天中止)
■料金;前売り2,300円 当日2,800円
※中学生以下及び65歳以上は無料(要学生証・身分証等)
■チケット発売中!
■発売取扱;
チケットぴあ(Pコード;250-373)
ファミリーマート全店
その他協力店
■問;ピースミュージック メール;info@peace-music.org
 
2007/2/25(日)
沖縄 Peace Music Festa! 辺野古'07

■出演;ソウル・フラワー・ユニオン/U-DOU & PLATY/NANJAMAN/琉球LION/渋さ知らズ/KACHIMBA1551/新良幸人/PAPA U-Gee with ZIONHIGH SESSION/カクマクシャカ/KZ[G.A.C]/King Jam Session/山原Ragga兄弟/花バンド
■OPEN 12:00/START 12:30/END 20:00 (雨天決行・荒天中止)
■料金;前売り2,300円 当日2,800円
※中学生以下及び65歳以上は無料(要学生証・身分証等)
■チケット発売中!
■発売取扱;
チケットぴあ(Pコード;250-373)
ファミリーマート全店
その他協力店
■問;ピースミュージック メール;info@peace-music.org

              

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2006年12月25日 (月)

大竹伸朗「全景」、すごく混んでた

12月24日のクリスマスイブは、東京都現代美術館で大竹伸朗「全景」を観てきた。
私は映画でもイベントでも芝居でもライヴでも、ほとんど一人で行く。
人と一緒に行くとなんだか気を遣って疲れるからだ。
それに私は喫煙者なので、タバコを吸わない人と一緒だと観終わったあとにゆったりと一服することもできないので、一人のほうが楽なのだ。
でも、24日はクリスマスイブだったので、この日はさすがに夫に一応声をかけたら彼も行ってみたいというので、一緒に行った。

昨年の彼の誕生日には、水戸芸術館でやっていた日比野克彦のワークショップに誘った。
たまたまその日にやっていた日比野のワークショップに私がどうしても行きたかったから、という理由だったんだけど。
なんで誕生日にそんなところまで行かなきゃいけないんだとか夫はしぶっていたが、ワークショップの中で参加者が誕生日順に並ぶことになり、たまたま誕生日だった夫は日比野克彦にハッピィバースデイトゥーユー♪とか歌ってもらい、ものすごく喜んでいた。(単純だ。)

そういえば、数年前に水戸芸術館でやっていたオノ・ヨーコの個展に一人で行ったとき、電話をただ置いただけの作品があって、その電話の前には「オノ・ヨーコさんから電話がかかってくることがあります」とか書いてあって、へ~とか思いながらその前に立っていたら、なんと本当に電話が鳴り、私は生オノ・ヨーコと電話で話をしたのだった。
オノ・ヨーコ、めちゃくちゃこわかった。
このエピソードおもしろいから、また機会を改めて詳しく書いてみたい。

で、話をもどすと、大竹伸朗「全景」を観てきたわけだが、全部見るのに3時間くらいかかった。すごい量の作品だった。疲れた…。
シュールレアリズムやアクションペインティングや読売アンデパンダンが好きな私にとっては、非常に興味深い作品群だった。
夫はいまいち好みではなかったようだが。
こういう作品を見慣れていない人にとっては、なにこれ?って感じだと思う。確かに。
自分がなんでこれらの作品に惹かれるのか、どこを興味深く思うのか、そのへん改めてまた書いてみたい。
書き出すと長くなりそうだから。

それなのに、ものすごく混んでいたのは何故だ?
われわれは昼ぐらいに美術館に着いたのだが、帰りにチケット売り場を見たら、チケットを買うのに40分待ちという状態だった。
最終日だったから多少混むのはわかるけど、現代美術にこんなに人が集まることが信じられない。
大竹伸朗の作品はずいぶん前から知っていたけど、それほど集客力のある作品とは思えないのだが…。

しかし、最近の作品であるという、日本の景色をテーマにしたシリーズはおもしろかった。
笑えた。
そのへんのことも含めて、詳しい感想はまた後日に。

3時間の美術館歩きとそのあとのクリスマスで疲れはピークに達していて、きょうは久しぶりにアロマソルト(手作り)入りのお風呂でゆっくりと半身浴をしたのだった。

                

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2006年12月23日 (土)

『エンジョイ』を観た宮沢章夫の感想

宮沢章夫の「富士日記2」のなかのDec. 20 wed. 「たくさんのメール」に、『エンジョイ』についての感想がいろいろと書かれていた。
なるほど。

http://www.u-ench.com/fuji2/index.html

       

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2006年12月20日 (水)

『エンジョイ』を観た

う~、さむ。

新国立劇場で『エンジョイ』を観てきた。
ぎりぎりまで行くのをためらっていて、会場に着いたのは2分前で、一番前の席だったことに驚いた。
芝居が始まってから、また驚いた。
私がそれまで観たことのない芝居のスタイルだったから。
芝居のつくりかたも、役者のしゃべりかたも動き方も、なんというかすべてが。

たぶん、天井桟敷や状況劇場やつかこうへいや野田秀樹などなどが演劇界に登場したときもきっと、それまでの芝居のスタイルを見慣れてきた人たちは、こういう驚き方をしたんだろうなと思う。

しかし、最初の衝撃とはうらはらに芝居自体はなんというか…、う~む、うまく言えないが、宮沢章夫が書いているように失敗しているように感じた。
なんだか、頭の中で作った芝居という感じがするのだ。
非常に観念的な芝居という感じがするのだ。
たしかに若者の「いま」を若者達の言葉で表現してはいるのだけれども、リアリティがない。
それともこのリアリティのなさこそがリアルなのか。

芝居を観ながら、芝居の内容や役者の台詞が私の中に入ってこない。
しかし眠くなるわけでもない。
で、何をやっていたかというと、芝居の最中、私はずっと自問自答を続けていたのだ。

この若者達の出口のなさは一体なんなのか。
この閉塞感は一体なんなのか。
抑圧された逃げ場のないこの感じが、現代の若者達の「いま」であるならば、いじめがあって当然だ。
この閉ざされた閉塞感は、自らと他者を傷つけずにはいられない。
自分とこの登場人物たちとの間にある距離感は一体なんなのか。
自分はこういう若者達のことをまったく理解してこなかったのではないか。
それにしても、どうして女をこんなに陳腐に描くのだろう。
それともこれがフツーの女の子達のありかたなのか?
最後の着地点というか出口というか、それが、こんなステロタイプな恋愛なのか?
それを今の若者達は望んでいるのか。
そんなところに着地するのか?
恋愛している男女のやりとりがたまらなく気持ち悪く感じるのはなぜ?
カタルシスなんて望んでいないけれども、もっとぐちゃぐちゃに悩み続けてもいいのでは?
それにしても、役者達のこの存在感の無さはなんだ?
それがリアルなのか?
それともこの違和感を、演出家の岡田利規は意図的に演出しているのか?
これが今の若者達の身体のリアリティなのか?
役者の身体から発せられた叫びや動きには見えないのだ。
演出家の観念に従って動いているようにしか、私には見えないのだ。
それとも私のイマジネーションや共感能力が不足しているのだろうか。
「ぐだぐだ」や「へなへな」や「弱さ」は好きだけど、それが保守化に着地したら意味がないような気がしている。
それならばまだ意味のないエキセントリックさのほうがいい。
阿部サダヲのアナーキーさのほうがいい。
しかしそれは私の個人的な趣味ではないか。
などなどなど。

で、芝居が終わったあと、このへなへなな気分のまま家には帰りたくはなくって、存在感のある身体を見たくて、新宿のロフトで森達也と鈴木邦男と綿井健陽のトークイベントがやっていたはずという、うろ覚えの記憶を頼りにロフトまで行ったのだった。
ロフトはすごく混んでいて熱気があって、ちょうど森達也と鈴木邦男と綿井健陽のトークイベントが始まるところだった。
私は座るやいなや、コロナビールを立て続けに2本も飲み、タバコを立て続けに6本くらい吸ってしまった。
それくらい、『エンジョイ』という芝居が、私にとっては重かったんだなぁ。

トークショーには石坂啓さんも飛び入り参加。
それにしても、『エンジョイ』に出ていた役者達と、トークイベントの出演者達との存在感のこの歴然とした差は一体なんなのだろう。

森達也も鈴木邦男も綿井健陽も石坂啓も、存在感がありすぎる。
その場にいるだけで、語らなくても何かを発している。
もちろん、しゃべってもおもしろい。

やっぱり好きだなぁ、森達也。
森達也の話を聞いていると、ぶれかかっていた軸が元に戻る。

そもそも私が『エンジョイ』を観ようと思ったのは、森達也と宮沢章夫が対談しているのを読んで宮沢章夫に興味を持ち、それで宮沢章夫の本を読んでいたらチェルフィッチュの芝居のことが書いてあって、それで観たくなったのだった。

一方、私は杉田俊介さんのブログを読んでいて、最近は岡田利規さんのブログも読んでいて、だか
ら杉田氏の著作『フリーターにとって「自由」とは何か』が『エンジョイ』の原作だと岡田さんが書いているのも読んでいた。
別々のところから出発した自分の関心が、どこかで連関していくのに驚いているわけなのだが。

『フリーターにとって「自由」とは何か』はだいぶ前に図書館で借りて数ページ読んで、これは自分で買ってじっくり読みたい本だと思っていながらでもぐずぐずと買わずにいて、つい最近注文したところだった。
しかし、数ページ読んだだけだが、『フリーターにとって「自由」とは何か』はすごくリアリティがあった。

岡田利規は、やはり自分にとってのリアリティとして「フリーター」のことを表現するべきだったのだ。
あるいは目の前にいる役者から、ナマの表現としてのリアリティ、リアルな言葉を引き出すべきだったのではないか。

                          
しかしなぁ、このへんがよくわからないのだけれども、もしかしたら私のリアリティとはまったく違うリアリティなのかもしれないと思ったりもする。
私が想像できないだけで。

『エンジョイ』のパンフレットの中で、杉田俊介さんは書いている。
「何ヶ月か職安に通いネットを駆使し人脈をたどり各社で面接を受けたが落ちまくった、とか。金も気力も尽きた。使い捨て正社員や日雇や派遣や時給780円のコンビニの仕事はあった。わらにすがって働いた。」

正直言って、私にはこういう経験はないのだ。
なぜかわからないけど仕事には恵まれ、ギャラも職場環境も待遇も人間関係もそれなりによく、仕事内容もそこそこ楽しいものだった。
だが、にも関わらずだ、にも関わらず辞めたくなるのだ。
だから私を一番強く支配しているのは、罪悪感なのだ。
恵まれているのにどうして続けられないのだろう、どうして期待に応えられないのだろう、という。
しかし思えば、自分はしょせん代替可能だという感覚がいつもあったように思う。
自分はたまたまラッキーに恵まれているけれども、がんばり続けなければ、このゲームから降りてしまったら自分の居場所がなくなってしまうという恐怖や不安は、いつも自分にぴったりと貼り付いていた。

でも『エンジョイ』を観ていて、登場人物たちの閉塞感と自分の閉塞感はやっぱり違うように感じたのだった。
背景にあるものは同じなのかもしれない。
でもその閉塞感から出発してどこへ向かっていくかが違っている。
自分の方が正しいとはけっして思ってないけど、私はどこか根本的な部分では楽観的なのかもしれない。
この世界や人間の可能性というものを無条件で信じているようなところがある。
なんでそんな風に信じれるのかがわからないけど。
もしかしたら恵まれているからなのかもしれないけど。

私はよく人から個性的だとか変わっているとか言われる。
そう言われるとむかっとする。私はきわめて普通だと。
だがあの芝居に出てくる人たちのようなあり方がフツーなら、確かに私はすごくへんだ。
だからいつも浮くのかな。
自分が人とは違う行動をとってしまうことに、なぜかわからないけど、いつも罪悪感がある。
まぁ確かに、中学生時代に暴力教師反対の署名をひとりで集めたり、社長と喧嘩して自分のデスク蹴ってそのまま会社辞めたり、へんだと言われたらへんかもしれない。
宮沢章夫がいうところの、身体性の強い側の人間なのかもしれない。ひ弱なくせに。

ドリカムの「何度でも」という曲があるけれども、その歌詞を聞くと夫は必ず私のことを想い出すという。
私は常日頃ポジティブシンキングが大嫌いだと言っているくせに、もしかしたらかなりのポジティブシンキングなのかもしれない。
うぅ、そんな自分がいやだ。

                   
以下、ドリカムの「何度でも」の歌詞の一部より。
             

何度でも何度でも何度でも立ち上がり呼ぶよ、きみの名前、声が涸れるまで。
(中略)
10000回だめで、かっこ悪くても、10001回目は何か変わるかもしれない。
前を向いてしがみついて胸掻きむしってあきらめないで叫べ!

            

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2006年12月19日 (火)

これから『エンジョイ』を観てきます

寒い、寒い、死ぬほど寒い。
でもきょうは新国立劇場でやっているチェルフィッチュ岡田利規演出の『エンジョイ』のチケットを取ってある日。
こんなに寒いとわかっていたら、別の日にしてたのに…。

宮沢章夫がこの『エンジョイ』のことを、新劇的(≠近代劇的)だとかいうふうに「富士日記2」の中で書いていて、寒いしそれを読んでさらになんとなく行く気持ちが萎えてくるのだった。
新劇的な芝居のスタイルというものが、私は非常に苦手なのだ。

だけど、私が芝居を観る視点と宮沢章夫が芝居を観る視点はまったく異なっているわけだし、私はおもしろいと思うかもしれないわけだし、寒くてもう死にそうで家から一歩も出たくないんだけど、チケット無駄にするのもばかばかしいし、とにかく気力をふりしぼって外出しよう。

                            
以下、宮沢章夫「富士日記2」の「Dec. 17 sun. 「舞台を観る」ver.2」より引用。
http://www.u-ench.com/fuji2/index.html

岡田君の新作『エンジョイ』が失敗しているのは、テーマが先行して書かれてしまった戯曲によってそれがきわめて制度として、「新劇的(≠近代劇的)」になっていることによって先に書いたように「身体性からの乖離」が生まれているからだ。これまでの作品では「からだ」がまずあって言葉があとからついてきたが(戯曲がそのようにして書かれていた)、『エンジョイ』はその「からだ」から遠ざかり、あの「方法(=チェルフィッチュ的なスタイル)」をそうでなければ自身のアイデンティティにならないものとして踏襲しつつも、ひどく身体性が薄い印象を受け、テーマばかりが前面にあらわれる。
(中略)
べつに『エンジョイ』が失敗していても、そんなことは岡田君を非難することではけっしてないし、岡田君というきわめて才能のある作家であり演出家に疵はつかない。
(中略)
正直なところ、ポツドールは、その見事な戯曲の結構によって「うまい」としか言いようがなかったが、だからといって刺激的ではなかった。チェルフィッチュの『エンジョイ』が失敗であることによって刺激をもたらしてくれたのは、そのことであらためて演劇を考える強い契機となったからだ。

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2006年11月16日 (木)

勤勉な自分(?)、それから「鵺/NUE」についての走り書き

忙しかった反動なのか、力が抜けてしまった感じで、ウツっぽい。
こういう時は、すべてがどうでもいいって感じになってくる。
あらがわずに、しばし、漂おう。
そして、こういう時は自分に優しくするのが一番。
自分が気持ちよくなることや心地よくなることや楽しくなることを、とにかくする。
でも、考えてみれば、ほんと私って自分に厳しいよな、そう見えないかもしれないけど。
一日中ごろんとして本を読みまくるというのをやってみたいと思いながら、そんなことすらず~っと長い間自分に許してない。
一日中本を読んでいたり、ビデオを見ていたりということはよくやっているよ、正直言って、実際には。
でもそれは、きょう一日本を読もうと思ってそうやっているんじゃなくて、読んでいるうちにおもしろくなってやめられなくなってそれですべての用事をほっぱらかして読んでいるだけであって、楽しみや娯楽や休息のために読んでいるという感じが全然しないんだな。あー、またこうやって流されて一日が過ぎちゃったという後悔とともに、ぐったりとして終わるという感じで。
しかも最近は、役に立つような本しか読んでいない。それが問題だ。
ミステリーとか時間つぶしや楽しみのためだけの読書みたいなのをしていない。
だめだ。ほんと勤勉だ。勤勉すぎる。そう見えなくても。
このブログのタイトルに使った絵本“Frog and Toad”のかえるくんみたいに生きたい。生きよう。生きねば。(←「~ねばならない」はよくないな、やっぱりそれは。)

                                                       
ところで、きのうのエントリーで宮沢章夫作・演出の「鵺/NUE」という芝居を観たということを書いたけれども、それにトラックバックがついていて、そこに「何というか、とても正統派の劇なので、面白くなかったわけではないのですが、内容がとても重くて、そして難解でした(私にとっては )。」とあった。

そうなのか、難解なのか…。
難解だとは思わなかったけど、そう見えるのか…。
正統派どころかかなり前衛的な芝居だと思ったんだけど。
芝居のおきまりの型を踏まえてやっていないので、それでたぶん難解であると感じるのではないだろうか。

しかし、あの芝居はエントリーにも書いたけど「演劇についての演劇」なので、日本の小劇場演劇の流れとかそういう予備知識がなければやはりわかりにくいかもしれないと改めて思った。
また私は、ここ数ヶ月で宮沢章夫の著作をほとんど読破したので、彼が何を意図して、何を考え計算してこの芝居をつくっているのかがよくわかる。
何に疑問をつきつけ、何を考え何を模索して何をつくろうとしているのか、そういうことも含めて。

芝居のそういう前提条件みたいなものを知った上で見ると、考えていたことをこういう風な形に構築していったのか、すごい、ということになるのだが。

しかしでも、日本の演劇にはたぶん今までこういう芝居はなかったと思うよ。
かつてのアングラ芝居を引用しつつ、今の新しい小劇場の芝居に疑問を投げかけ、その双方を交錯させていくというやりかたは。
色々な出自の役者がいて、それぞれの演技の違いを見ているのも、私にはおもしろかったのだが。

まぁ、しかしそう考えてみれば、かなりマニアックな芝居であるといえるのかもしれないけど。
さすが宮沢章夫だなと思ったのは、政治的な「現在」というものもきっちりと念頭に置きながら芝居をつくっているということ。

野田秀樹の芝居とか観ると、今この時期にこの芝居をやる意味というのは果たしてあるのだろうか、などと思ったりもする。

時間がないので短めに書くつもりだったのに、いつのまにかだらだらと長く書いていた。

               

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2006年11月15日 (水)

『鵺/NUE』を観てきた

きのうは、宮沢章夫作・演出の『鵺/NUE』を観てきた。
http://www.setagaya-ac.or.jp/sept/jouhou/06-2-4-35.html

この傑出した稀有な才能と、同時代的に居合わせたことに至福を感じる。
文学や映画や音楽は同時代でなくても鑑賞できるけれども、芝居だけは同時代に居合わせないと観ることはできないので。
もう一回観たいぐらい。
私がいままでに観た芝居の中で、いちにを争う。
それくらいクオリティが高く、完成されている。

この芝居は「演劇についての演劇」をテーマにしていて、演劇とは何か、演劇における言語とは、表現とはといった疑問それ自体が演劇表現として提示されているという非常にトリッキーなつくりになっている。
私は、こういうのが大好きなんだな。

この芝居を観て、自分がなぜ最近の小劇団の芝居をおもしろいと感じられなかったのか、その理由がよくわかった。

いまは余り時間がないけど、そういうことも含めて、改めて感想を書けたら書くつもり。

書く予定でいながら、書けないままのもの。
映画『こほろぎ嬢』の感想
映画『ストロベリーショートケイクス』の感想
『鵺/NUE』の感想
安田弁護士の話で重要だと思われること
(書く予定の内容を、忘れないように自分のメモとして記す。)

それにしても、この2~3週間は本当に濃かったなぁ。
このブログにすべてを書いてはいないのだけれども、いろいろな人に会い、いろいろな作品を見、知人の企画したワークショップに参加し、その一方で畑の収穫と野菜の下処理をし、病院に行き、仕事的なこともこなし…と、非常に密度の高い日々だった。
疲れた疲れたとそればかりブログに書いていたけれども、こんなに忙しかったら疲れても当然だった。
来週以降は少し落ち着けるかな…。

いずれにしても、『鵺/NUE』にもし興味があるならお勧めです。
宮沢章夫、すごいです。
チケットまだあるかな?

                  

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2006年10月26日 (木)

観る予定の芝居や映画のことなど

きょうは呼吸法に行ってきた。
からだがこわばっていたのがわかった。
慌ただしくて、ぜんぜん用事が片付かないな。

それはともかくとして、宮沢章夫の『東京大学「80年代地下文化論」講義』にチェルフィッチュという劇団のことが書いてあり、すごく興味をもった。
一時期、小劇団の芝居をずいぶん観ていたのだけれども、最近は芝居に対する関心が減少しつつあった。
だが、このチェルフィッチュは観たい。たぶん、きっと、すごく私好みだ。
で、ネットで検索したら、以下のHPを発見。
http://chelfitsch.net/

ちょうど、新作「エンジョイ」が12月新国立劇場にて上演予定ではないか。
以下のページで、「エンジョイ」の内容が簡単に記されているけど、おもしろそう。
年長フリーター、非正規就労者の問題、格差社会などをテーマとした作品になるようだ。
http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/10000119.html

チケット取れないかもと思いつつ、一般発売日に電話をしたらかなりいい席がとれた。
楽しみ。

で、明日(もう今日になるけど)は東京ウィメンズプラザで浜野佐知監督の新作『こほろぎ嬢』を観てくる。
http://www.h3.dion.ne.jp/~tantan-s/
http://www.iwff.jp/

きょう、今週号(10月30日号)の『AERA』を買って、「現代の肖像」で北原みのりが書いた浜野佐知監督のインタビュー記事を読んだ。
新作『こほろぎ嬢』はおもしろそうだぞー!
電車の中で『AERA』の記事を読んでいて少しだけ泣いてしまった。
そこに書かれていた映画『こほろぎ嬢』のラストの言葉に感動して。
明日観るのが楽しみ。

と、こういう予定が続いていて、いっこうに用事が片付かないのだ。
企画書なども書かねばならないのに、あさって(日付的には明日)は2週間に一度の篠笛の稽古日じゃないか!
毎度毎度まったく練習もせず、笛に触ることすらせず、稽古の直前にあわてて練習のまねごとみたいなことをするという、それでいいのだろうか。
よくない。しかし、笛の練習をしている余裕がないのだから仕方ない。
笛を始めてからずっと練習をする時間がないっていうのは、なんなんだ私は。
このブログは、私の笛の先生がときどき覗いていたりする。
この記事を読まないでくれることを願う。

でも、笛がうまくならなくても、私は先生や一緒にお稽古をしている方々と時間を共有できるただそれだけで楽しいのです。
(と、苦し紛れのフォローをしつつ。)

            

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著者:宮沢 章夫
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2006年10月10日 (火)

石岡瑛子著『私 デザイン』

松岡正剛の「千夜千冊」の中で、石岡瑛子の『私 デザイン』(講談社)がとりあげられていた。

石岡瑛子。

私は、元コピーライターだ。
石岡瑛子から影響を受けていないはずがない。

大学時代には詩を書いていたが詩でめしが食えるはずがないと思い、言葉を使って一番簡単に金が稼げるのは何かと考えて、コピーライターになった。

コピーライティングは独学で勉強した。
過去のコピー年鑑や広告年鑑を何度も読み返し、気に入ったコピーを手書きでノートに書き写して勉強した。

石岡瑛子はコピーライターではない。
デザイナーだ。
イメージをうみだすクリエイターだ。
挑発的で、強い女のイメージを発信していた。

企業の金を使って、こういう風に、世の中を支配しているムードや価値観を変えられるのか、と驚いた。

詩なんて書いても誰も読まない。
でも、広告は誰もが見る。

私はいまコマーシャリズムに対して少々批判的ではあるが、でも、私の好きな人は広告畑を出た人が多い。
横尾忠則、糸井重里、そして、石岡瑛子。

広告会社の入社試験で私は、「言葉の地平をゆるがしたいんです」と不遜にも言ったんだっけ。

あぁ、久しぶりに石岡瑛子のことを思い出した。
かっこいい女。

私はどうやら、女は強い人が好きで、男は弱い人が好きなようだ。

女が弱くて男が強いのは当たり前だからね。(表層的だけの話だけど。)
そのステロタイプから逸脱している人に惹かれる。

                            
いま私は石岡瑛子のようなパーフェクトな仕事の仕方や生き方にはあまり関心がなく、どうやってずれやゆるみを楽しむかというほうへ興味が移っているが、こういうとんがった人がやっている仕事ぶりには相変わらず惹かれる。

松岡正剛が石岡瑛子のことをリスペクトして書いている文章は素敵。ぜひ読んでみてください。

                           

私 デザイン Book 私 デザイン

著者:石岡 瑛子
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2006年10月 1日 (日)

クリエィティビティ

作家・森博嗣の日記 MORI LOG ACADEMYをときどき読んでいる。
飛ばし読みだけど…。
毎日更新されているブログや日記などは、ついつい毎日チェックしてしまう。

この中の2006年09月18日(月曜日)の日記で、よしもとばななが特別に投稿していて、それが結構おもしろかった。

よしもとばななが小学校二年生のとき、紙粘土で生き物をつくり網に貼り付けて壁掛けにするという工作で、くねってはねている魚をつくったら、「曲がってるのをつくっちゃいけないんだ、魚とはまっすぐなものだからだ」と周りのこどもたちがクレームをつけてきたそうだ。
でも先生が「なにを言うんだ、すばらしいことじゃないか、動いてる魚をつくるなんて。こういう考え方が図工には大事だよ」と言ってくれたのだと。

で、それに続けて、彼女はこう書いている。

 先生がどういう人であるかはとっても大事だと私は思った。もしここで先生まで「魚はまっすぐに!」なんてことを言い出したら、私はもう学校に行かなくなったかもしれない。
 子供たちがそんなわけのわからない統一感を創作に対して求めていたのが謎だが、きっと彼らは私の持っている気持ち悪いくらいのクリエィティビティを潜在的におそれていたのだろうと思う。そしてなにかのきっかけであげあしを取りたかったのだろう。
 もしかして今は時代が逆のほうにふれていて、子供が「死んだ魚」をつくろうとするとクリエィティブじゃない、とみんなが責めてくる時代になっていて、実は同じことであるような、いやな予感がする。
 いずれにしても創作に基準があると思う方が、おそろしいのだ。

                         
今の時代は逆に「子供が「死んだ魚」をつくろうとするとクリエィティブじゃない、とみんなが責めてくる時代になっていて」という洞察をするあたりは、さすがに鋭い。

よしもとばななの最近の小説は、どうしても読めないのだけれども、彼女が書くこういうエッセイ風な文章はばつぐんにうまい。

                     

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宮沢章夫「富士日記2」を読んで、思ったこと

以下は、富士日記2の、Sep.23 sat. 「また稽古ははじまっている」より引用
http://www.u-ench.com/fuji2/index.html

「性同一性障害」「ジェンダーフリーとバックラッシュ」「監視カメラ問題をいかに笑うか」……、で、『東京大学「地下文化論」講義』で、「八〇年代が生み出した、ある種の清潔感(それは七〇年代への反発として生まれた部分もあるが)」と、やはり八〇年代に生まれた「差異化のゲーム」といったものが、現在、歪んだ形で反復されていないかどうか。つまり、「禁煙」に関する神経質な社会の反応をはじめ(ホームレス排除の社会的風潮)は、「清潔感」の現在的なありようだろう。「差異化のゲーム」は、「社会の格差を大きくすることにつながっていないか」といったことも考えられる。

                
なるほど…。
このへんについては、私もいつももやもやと考えていることなのだけれども、うまく考えがまとまらない。
異質なものを排除していく清潔感のようなもの、か。

最近の表層的なエコロジーブームみたいなものも、こういう清潔感や正義感や潔癖性とリンクしていきそうなあやうさも感じる。
そういう人達のなかには、伝統回帰みたいな志向の人もけっこう多いけど…。

過去や歴史に対する洞察抜きに、古き良き日本とか短絡的に思うのはかなりあやういと私は感じる。コミュニティの再生とかも。

私はなんらかのコミュニティが必要だと思っている側のひとりだけど、かつてのコミュニティには排他性とか性差別とかいろいろな問題もあったわけで、だから若者がそれを嫌って出て行ったということもあるわけだから、その辺をきちんと見極めていく必要はあると思う。
昔のままのコミュニティを再生したって、どうなのよ、それ?

本当はかなりラディカルなはずのエコロジーやコミュニティ再生という発想が、安倍晋三的な「美しい日本」みたいな方向に回収されていく危険性は大いにありうる。
古きよき日本。男は男らしく、女は女らしく、ホームレスもいない、労働を美徳とする社会、か。
清く、正しく、美しく。
やだね。
悪い奴、きたない奴は、生きていることすら許せないという感覚。
あー、あやういなぁ。

ヒットラーも確か、農業とかエコロジーとかそういうことを非常に強くうちだした人だったよね。

宮沢章夫がいうところの「抑圧する者によって排除されるノイズ」、というような視点は非常に重要な気がしている。
だからこそ私は、ノイジーな文化、猥雑なもの、規範からはずれている美を愛して止まない。

網野善彦的な視点…。
社会構造からはみだしたもの達にむけられたまなざし、そこにある豊饒さ。

              

それから、宮沢章夫がリンクをはっていたから見たんだけど、オーマイニュースのこの記事すごいね。

公園のベンチが人を排除する?
不便に進化するホームレス排除の仕掛け

http://www.ohmynews.co.jp/HotIssue.aspx?news_id=000000001539

都築氏は、これらの行政のやり方は、悪意があるように見せないことが大事で、排除アートだということを市民に気が付かせないようにするのが“芸”だという。本来は、人々の心や生活を豊かにするためのアートを、特定の人を排除するために使うなどいやらしいやり方だと思う一方で、行政・ホームレス双方の態度に不器用さを感じる。(記事から一部抜粋したもの)

アート関連の雑誌編集を手がけ、写真家としても活躍している都築響一という人が言っているらしいけど、平気でよく言うよなぁ。
社会構造から逸脱した者たちが、この国の文化や芸術を作り出してきたのだという網野善彦的視点を、都築さん、あなたはもっと学ぶべきでしょう。

              

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2006年9月28日 (木)

『日本以外全部沈没』を観たけれど…

きょうは(もう昨日だけど)、渋谷に出かける用事があったので、帰りに『日本以外全部沈没』という映画をシネセゾンで観てきた。用事の終わった時間が遅かったから、レイトショーで。
あんまりおもしろくなかった。
タイトルがおもしろかったから腹をかかえて笑えるパロディ映画かと期待して行ったのだけれども、日本以外すべての国が沈没して、日本に世界各国からの難民が押し寄せても日本人は何も分かち合わず外国人を迫害していくなんていう話、パロディでもなんでもなくリアルじゃない、つまんない、って感じ。

『日本沈没』という今上映されている映画のパロディなんだけど、こっちのほうはおもしろいのだろうか。あまり観る気がしないけど。

このシネセゾン渋谷では今、『パビリオン山椒魚』が上映されている。
主演はオダギリ・ジョーだ♡!
オダギリ・ジョーが、今、マイブームである私。
しかし、どうもこの映画は観たいという気持ちになれなかった。
奇を衒った映画のような気がして、食指が動かなかったのだ。

だが、映画館に置かれていたチラシを見たら、すごくおもしろそうだぞ~。
思いっきりシュールな前衛映画じゃないか!

私はそもそも、大学一年生のときにルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』と『ビリディアナ』を観て、映画のおもしろさに開眼した人間だ。
この2本の映画を観たあと、全身が震えて座席から立てないくらいだった。
ぶっとんだ。
それ以来、むさぼるように映画を観た一時期があった。

好きな映画は、ブニュエル以外では、ゴダールの『中国女』『彼女について知っている二、三の事柄』、タルコフスキーの『鏡』、アラン・タネールなどと言ったら、だいたい私の嗜好がわかっていただけると思う。
そして、卒論のテーマで扱ったのが、瀧口修造とシュールレアリズム。

なわけだから、『パビリオン山椒魚』は観ないわけにはいかないだろう。
日本にもゴダールに匹敵するような監督が登場したのだとしたら、すごいことだ。

それにしても最近は日本映画ばかり観ている。
映画の情報も積極的には収集していないのだけれども、現代のフランス映画ってどうなっているんだろう。
新しい表現をする監督とか、でてきているのだろうか…?

                           

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2006年9月23日 (土)

曲作り、畑の青虫

なんだかバタバタしていて、ブログを書いている余裕がないです。
でも、近況だけちょこっと。

                                    
昨日金曜日は篠笛のお稽古へ。
前回、短い曲をつくる宿題が出ていた。
え、そんな、作曲なんて一度もやったことがないのにできないよと思ってぎりぎりまでやらないでいたのだが、笛を吹き始めたら勝手にメロディが頭のなかに浮かんでくるではないか!
映画音楽とかよく作れるなぁと、音楽にうとい私は音楽をやっている人達に対してかねがね敬意を抱いていたのだが、こんな風に勝手にメロディがわいてくるものなのだとは思ってもみなかった。
けっこう、おもしろい。
作曲家の人の感覚がなんとなく理解できた。

自分は大学時代に詩を書いていて(実は今でもときどき書いていて)、大学時代には詩の雑誌にも少し詩を載せたりしていたことがあったのだが、そのとき知人からこう聞かれた。
「詩ってどうやってつくるの?」「詩なんて、一体いつ、書いているの?」

そう聞かれて私は、「えっ?」と驚いてしまった。
いつって言われても、書こうと思ってさぁ書くぞと書いていたわけではないのだ。
歩いていたりするときに、勝手に言葉がわいてくるのだ。
言葉のほうから勝手にやってくるのだ。
そういう体験をしていない人に、それを説明するのは難しい。

                                                         
作曲も詩を書くのと同じだったんだな…。
メロディのほうから、勝手にやってくるものなのか…。

でも詩を書くのも曲をつくるのもたぶん同じだと思うけれども、言葉やメロディのストックがないと、むこうからやってきたものを受信することも難しいのだと思う。
下りてきた「もやもや」としたものを形にするための、素材となるストック。

自分が回路となって、言葉や音楽の源のようなものとつながる感じ、あの快感、それを久しぶりに思い出した。
また何か作曲してみようっと。

                                       

そいで、きょう土曜日は畑に。

ブロッコリーとカリフラワーに青虫がいっぱいついていた。
このままではブロッコリーもカリフラワーも全滅してしまいそうだったので、本当に申し訳ないとは思いつつも、青虫君には成仏してもらった。

わたしたちは、他の生き物の命をいただいて、生きている。
畑をやっていると、そのことがよくわかる。
そのことから逃れられない。

                                                         
ばたばたしていると言いながら、けっこう長々と書いた。

                        

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2006年9月15日 (金)

「怪しげなもの」や「へんな人」が好き

ここ数日、「怪しい」ということについてこのブログでいろいろと書いてみた。
私は、未知なものや自分とは異なる世界観にすごく惹かれるし、そういうものと出会うとわくわくする。
「怪しげなもの」や「へんな人」がとても好きだ。

そういうものや人と出会うと、自分の視点や世界観がひろがっていく。
それに、純粋に楽しいしおもしろい。
異質なものが存在することを楽しめることが、社会自体のゆとりや豊かさなのではないか。

異端を許さず、一見まっとうそうに見えるものしか許されない社会なんて、窮屈で退屈で私には耐えられない。
そういう排他性は、全体主義やファシズムにつながっていく危険性をはらんでいる。

一元的な社会は居心地が悪いし、私にはすごくこわい。
一方、異なった価値観や方法論や表現方法が許容されている世界は、多面的で重層的な美しい音楽のように感じられる。

「まじめ」さも、どことなく危険な感じがする。
まじめすぎると、夾雑物のはいりこむ余地がなくなってしまうのだ。
弱さやいい加減さを許す余裕がなくなる。

平和だとか正義だとか愛だとかを過信しすぎたり、盲信してしまうのもこわい。
(そういったものはある意味でかなりまじめだ。あまりいい加減さがない。)
平和運動をやっている人のなかには、そういうまじめな人がけっこう多くて、彼らの前に出るとからだがひとまわり小さくなったかのごとき窮屈さを感じてしまう。


オカルトっぽい話やスピリチュアル系の話をすると、急に眉をしかめる人が多いのはなぜだろう。
眉をしかめるだけならまだしも、攻撃的に向かってくる輩がいる。
青梅の畑でたまたま一緒になった中年男性は、女性達がスピリチュアルっぽい話に花をさかせていたら、科学で証明されていないことを口にすべきではないと挑発的に言ってきた。
あの手の科学万能主義みたいなものには本当に辟易してしまう。
科学なんて、本当に短い歴史しかない、世界を解釈する単なるひとつの視点というかパラダイムにすぎないのに…。

しかし、一方、オカルトやスピリチュアルな世界にのめりこんで、自分の行動をすべて占星術で決めたり、しょっちゅう霊媒師に話を聞きに行ったりしている人達にも違和感を感じてしまう。
霊的なことが見えたり感じたりするから自分は特別なんだと思っている人達に対しても、不快感を禁じえない。

科学万能主義に走るのも、オカルトや精神世界にのめりこむのも、いずれも極端すぎてバランスを欠いているように私には思える。
極端までいってしまったほうがきっとおもしろいんだろうけどね。

自分が完全に依拠できる世界観があって、そこに入り込めたら余計なこととか考えずにすむだろうし、居場所もあったりするんだろうな。
私のように常に違和感とともに宙ぶらりん状態で漂わずにすむんだろうな。
そういうのって、なんとなくうらやましい。

でも、私にはできない。
私にとっては、いろいろな価値観が共存しているそのあり方自体が一番おもしろいのだから。
こんなつまみぐいてきな人生はいやだ、何かにもっとコミットしたい、自分の確たる居場所がほしいと願わなくもない。
どこかに安住したいのにできないという、これが私の孤独や生きづらさの理由でもあった。あぁしかし、これが私の性(さが)なのだろう。                                                                    

未知なものや異質なもの以外に、まだ価値の定まっていないようなものにも魅力を感じる。
すでに評価されているものにはあまり興味がわかない。

友人などと話していて、陶芸で有名な何とか先生だとか、有名な整体師のお弟子さんのなんとかさんがとか、そういう話が続くと次第に興ざめしていく。
作品とかその人自体ではなくて、単に名前に惹かれているだけじゃないと思ってしまうのだ。
たぶん自分という人間はミーハー性がまったくないんだろうな…。

評価の定まったものや人よりも、まだ未知の不定形なこれからどうなっていくかわからないような躍動感のあるエネルギーに惹かれるのだ。
みんなが認めているもの、みんなが自明だとしている価値観の中で生きていたって、そこにはおもしろさも発展性もないような気がしてしまう。

私というのは本当に変わり者なのかもしれない。
あまのじゃくやへそまがりといってもいい。
でも、これが私なんだ、仕方ない。

ついでに言うと私は、「相田みつを」のようなわかりやすさがたまらなく苦手である。
知人が「相田みつを」の絵葉書で年賀状を送ってきた時はいやがらせか冗談かと思ったが、本気だったから驚いた。
相田みつをファンの人、単なる嗜好レベルの問題だから許してね。
                     


<追記 >                             
先日、夫に貸していた『職業欄はエスパー』(森達也著)がやっと返ってきた。
一年前に貸したのに…。
まぁいいけど。
本人はえらく刺激をうけたみたいだ。

この本の最後で、森達也はこう書いている。

p388
「この健全な鋳型からどうしてもはみだしてしまうところに「超能力」の本質がある。そして僕が、惹かれて止まない理由もきっとここにある。」

(清田君のスプーン曲げは私も見たことがあるけどすごかった。スプーンの先の丸い部分が、見ている前で、触れてもいないのにぽろっと落ちました…。)

               

職業欄はエスパー Book 職業欄はエスパー

著者:森 達也
販売元:角川書店
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2006年9月 6日 (水)

田中泯の公式サイト

『メゾン・ド・ヒミコ』にヒミコ役で出ていた田中泯のダンスが見たいと思ってネットで検索したら、公式サイトが見つかった。
http://www.min-tanaka.com/

                     
「ダンサーとは本来、無名の力であり、場所のメディアであった。私もそうありたい、 と欲するのです。」と書かれてある。
かっこいいなぁ。
             

『私は地を這う前衛である』
20年程前に師である故・土方 巽(ひじかたたつみ)へのオマージュの中で書いた。今もこの精神は私の本質である。
近年では、『私は地を這う農民でもある』と付け加えたいと思っている。

そうなんだよね。
田中泯って農業もやっているんだ。
「RICE PAPER」というフリーペーパーで読んで知ってた。
自分も農をやりたいと思っていたから、舞踏をやっている人がこういうことをやっているんだと知って少なからず影響を受けた。
だって、田中泯って前衛だぜ~。

ヤギやウサギやロバも飼っているんだよ。
いいなぁ。うらやましいなぁ。
一度遊びに行ってみたいなぁ。

            
以下の文章は、公式サイトの中から引用。
あまりにもかっこいい文章なので、全文引用させていただきました。
(公式サイトの方も見てね。) 

                   
人間が土から恩恵をもらって生きられること。
あたりまえのこと。日常のこと、生活のこと。
日々の天気、気温や湿度、雨や風、太陽の光の強さに悩まされるような、かつての時間は、現代では「ひと昔前のこと、、、」と言われてしまうのだろうか。

忘れてしまった時間に古さをつけ加えるいい訳を止めようと思う。
正面から向き合って身体を動かすことで、以前よりもっと深い気温や湿度を感じることがある。

植えた野菜の葉が、昨日の雨や風を見せてくれる朝がある。
もいだ果実の重みが伝えてくれる瞬間がある。

古代緑地の静寂。
私より大きな時間を日常の隅に見つけること。
農業には、古い過去からの反現代、具体の現在がある。

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2006年7月16日 (日)

モノノケ・サミットのライヴは最高だった!

暑くてブログの更新をする気力がなかなか湧かない。
さっき携帯から投稿しようとしたら、途中で携帯の電池が切れてしまったので、今やっとPCに向かった。
でも長文を書く気力が湧かない。
書きたいことは色々たまっているので、来週には時間をとって、少しまとまったものを書くつもりではいるのだけれども…。

きのうは昼頃に畑の収穫へ。
畑についた途端に雷雨になったが、雨宿りして雨がやんだあとの夏空の下で畑仕事をするのは気持ちよかった。

夕方はソウル・フラワー・モノノケ・サミットのライヴへ。
おもしろかった!
音楽も脱力系MC(大坂系のノリ)もすごく好き。
沖縄民謡をいっぱいやってくれたのが嬉しかったなぁ。
竹田の子守唄もあった。
篠笛の発表会であんな風に吹きたかったんだけれども、道は長い…。

ゲストの寿もよかった。
沖縄音楽がやっぱり好きだ!
三線を弾いてみたい。
来年は三線をやろう。

PCで文章を書くと、頭に浮かんだのとほぼ同じスピードで書けるから、やっぱりコトバが流暢になる。
携帯だとやたら時間がかかってねぇ。
とはいうものの、エアコンもつけずにPCに向かっているので汗が噴出してきている。
もう限界だ。

ちなみに、以下が、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットというバンドについての説明。

行動する音楽団体、ソウル・フラワー・モノノケ・サミット。かのソウル・フラワー・ユニオンの変名アコースティック・ユニットである。95年、阪神大震災被災地への草の根的慰問活動を実施すべく結成。エレキ・ギターを三味線、マイクをメガホン、ドラムを和太鼓、キーボードをアコーディオン--に持ち替え、朝鮮/アイヌの民謡や戦前歌謡などのソウル・フラワー・ヴァージョンを各地で精力的に披露していった。被災地のお年寄りたちはその演奏にいたく感銘を受け、大いに歌い踊り泣いたという。あまりに痛ましい影を残した阪神大震災、彼らの熱い活動が多くの被災者の心のより所となったことは、言うまでもない。
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1106532/index.htmlより)

                     

ニューアルバム『デラシネ・チンドン』は、こういう内容。
 ↓
被災地神戸、寄せ場、障害者運動、被差別部落、ホームレス、在日、沖縄、アイヌ、南北朝鮮、香港、ベトナム、フィリピン、東ティモール、北方領土、フランス、アイルランド、セイグワー(登川誠仁)、バタヤン(田端義夫)、エトセトラ……。無数の素晴らしい「出会い」が産んだ、風狂チンドン楽団モノノケ・サミットの新世紀決定盤、いよいよ登場!!

                      

上記の説明を読むだけでも、私の嗜好にあいすぎている~。
もちろんニューアルバムも買ったよ!

                     

彼らのオフィシャル・サイトは以下↓
http://www.breast.co.jp/soulflower/index.html

                          

              

DERACINE CHING-DONG Music DERACINE CHING-DONG

アーティスト:ソウル・フラワー・モノノケ・サミット
販売元:3Dシステム
発売日:2006/06/07
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2006年6月17日 (土)

茂木健一郎『脳と仮想』

いま、茂木健一郎の『脳と仮想』を読んでいる。
非常におもしろい。

茂木健一郎の本は、いままでに文庫を2~3冊買ったが、途中で放り出してしまっていた。
でも、この『脳と仮想』は放り出すことができない。
生意気な言い方をしてしまえば、茂木健一郎の思考の次元が一段階あがったような印象を受ける。

私が茂木健一郎のことを知ったのは、アーティストである内藤礼との対談を読んでから。
それで興味を持った。

内藤礼の作品については色々うわさは聞いているが、まだ実際には見ていない。
なかなか見る機会がないのだが、ぜひ見てみたい。

昨年、直島にも行ったのだが、内藤礼の作品は予約制だったため、見れなかった。
築約200年の小さな家屋の屋根や構造などをそのまま使って、家屋の内部を作品にしているという。
一人ずつ家屋に入って作品を体験するらしい。

直島はおもしろい島だった。
(そのことを今書いているヒマがないが。)

この茂木健一郎の『脳と仮想』、図書館で借りていて、返却の催促が図書館から来ている。
まだ3分の1くらい読み残しているのに。
1500円か…。買おうかな。

                                 

脳と仮想 Book 脳と仮想

著者:茂木 健一郎
販売元:新潮社
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2006年5月18日 (木)

小田まゆみと宮崎学が共存している私の感性って

ブログを書くにしても、共謀罪にノーと言うにしても、体力と気力が必要なんだということを痛感している今日このごろ。
まずは体力づくりから始めないと、続かないな…。
部屋の中、ぐちゃぐちゃ。
犬は下痢になって元気がないし。

5月16日(火)は、西荻窪のほびっと村で、小田まゆみさんの話を聞いてきた。

小田まゆみ(おだまゆみ)さんとは、こういう人。↓
66年渡米、カウンターカルチャー最前線の西海岸で禅と農を学ぶ。シングルマザーをしながら画業を続け、世界各地で個展多数。92年、環境活動団体「プルトニウムの ない未来」を設立。現在、ハワイ島でリトリートセンターと有機農園を運営。画集『女神たち』『ガイアの園』(現代思潮新社)他。
5月12日より、渋谷区松濤のGallery add 2+ にて個展を開催。

                                                                               
私は小田まゆみさんの女神の絵が好きで、家のなかに彼女の絵を2つ飾ってある。

彼女は、「いつも自分が見たい絵を描いてきた」と言っていた。
強い女やポジティブな女を描いた絵が見たいのになかったから、それを描いてきた、と。

既存のイメージが物足りないなら、自分でつくっていくしかないんだなと思う。

小田まゆみさんはいま、あまり絵を描いていないとのこと。
女神の絵を描くより、今は、この世の中に素晴らしい女の人をたくさん送り出す手伝いをしたいと言っていた。

                                                                        
それにしても、つい先日は宮崎学が企画した「安田好弘弁護士批判に応える緊急トークイベント」に参加して、そして今度は小田まゆみの「母なる大地・母なる女神」というトークと瞑想の会の参加している私。

宮崎学も小田まゆみも両方とも好きだ。
まったく真逆にみえるこの両方ともが好きだという、自分のこの感性っていったい何なのだろう!?
自分の興味や関心や嗜好って、本当に雑多なものが混在していて、自分でもあきれる。

でもひとつ言えることは、主流に属さない「異端」な人が好きということだろうか。

                                               
ところで、「安田好弘弁護士批判に応える緊急トークイベント」の感想、なかなか書けないなぁ。
自分の感じたことや思っていることも含めて、自分の内面にまで一歩踏み込んでじっくり書きたいから、まとまった時間がある時じゃないと書けない…。

                               
それにしても、政治のほうは次から次に…。
いやになるけど、振り回されずに自分を保たなければ。

                                          
以下、「共謀罪の歌」を作って歌っている、半農半漁の自給自足シンガーソングライターZAKIさんのメッセージより。

明日19日午前の法務委員会が重要な決戦の様相を呈して来ています。
たくさん国会前に集まって国民のプレッシャーを掛けてやろう!!
自分も朝から彼等と一緒に演奏しています。

共同行動の19日(金)の国会前スケジュールです!

8時半~ビラまき
地下鉄丸の内線、国会議事堂前駅1番出口

9時半~13時、座り込み。
11時半~13時、国会前昼集会。
ともに衆議院第二議員会館前です。

採決時緊急院内集会。

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2006年5月 9日 (火)

医学博士で落語家 立川らく朝

あさっては、篠笛のお稽古日。
前回は休んでしまったため、一ヶ月ぶりのお稽古日だが、この一ヶ月間ほとんど笛に触っていかなかった。
なので、きょうは疲れきっていたけれども、音がでるかどうか心配だったので練習した。

といっても、ふまじめな私は、テレビをつけたままの「ながら練習」。

というわけで、テレビを片目で見ながら練習していたら、興味深い内容だったため思わず笛の練習をほっぽりだして見入ってしまった。

医学博士で落語家の「立川らく町」という人がテレビに出ていた。
この人は内科医になったあと44歳で落語家を志し、46歳で立川志らくに弟子入りして本格的なプロの落語家として出発したという。
今は、医者と落語家の二足のわらじをはいているのだとか。
何歳になっても、自分がやりたいと思えば始めることができるんだと感動した。

私は大学を卒業してからしばらくの間落語にはまっていて、寄席通いをしていた。
二つ目の人たちとも親しくなって、一緒に酒を呑んだりもしたが、最近は落語から遠ざかっていた。

でも、この「立川らく町」という人の話を聞いていて、また無性に落語が聴きたくなった。
落語を聴いて、思う存分笑って、いやなことを全部笑い飛ばしてしまいたい。

立川らく町いわく、落語の登場人物というのは、「がまんしない」「無理しない」「自分の欲求に忠実」「自分の弱さをさらけだす」という性格の持ち主が多く、こういう人たちはストレスがなく、病気にならず、長生きをすると言っていた。

私の恩師の精神分析医がいつも言っていることとまったく同じだ。
また私自身も、自分が主催するワークショップや自助グループ(セルフヘルプグループ)では、上記の要素が自由に表現できる「場」であることをいつも心がけていた。

がまんしないで、自分の弱さや本音をさらけ出せる空間というのは、本当に必要だと思う。
それがいかに人間の心身を健全にしてくれることか。
そうやってガス抜きしないと、本当に窒息してしまう。

でも、そうやって本音を表現する「場」さえ、共謀罪が成立したら規制されてしまうんだよね。
ほんとにこわいよ。
「心のノート」だって、そういうのを抑圧していい子ちゃんをやりなさいって奨励しているんだから、まったくなんというか……。河合隼雄いい加減にしろって感じだよ。
そうやって抑圧されたフラストレーションは、見えないところで、よりさらなる弱者に向けられていくに違いない。
学校にも、セルフヘルプグループみたいに、生徒同士で互いの話にきちんと耳を傾けて自分の本当の気持ちを語れる場や時間があったら、いじめだって減っていくんじゃないだろうかって思っている。
国を愛する心より、仲間の話をちゃんと聞けたり、人に共感できる心を育てていく方がずっと大事なことだと思うのだが…。

立川らく町はこう言っていた。
自分のストレスを時々逃がしてやらなければパンクする。
落語を聴いて、ストレスがない自由な登場人物や自由な世界の話を聴いて笑うことも必要ではないかと。

そうか。
自助グループと落語というのは、実はつながっていたんだな。
自分がなんで落語が好きなのかやっと理解できた。(遅すぎるぞー)

                                                                                    
落語の登場人物を見習って、もっと自在に生きようぜ~。
それが人間らしいってことさ!
(妙にハイになってる私。疲れた余りのランニングハイか?)

疲れたとか言いながら、立て続けに3つも記事を書いちゃったけど。
でもこうやって書くことが、自分にとってはフラストレーションの解放になっているんだな、きっと。

以下は、立川らく朝のホームページ。
http://home.j01.itscom.net/rakuchou/

                                          

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2006年5月 5日 (金)

「あかね」でラダックについて語り合った

5月3日は、早稲田にある交流イベントスペース「あかね」というところで開催されたワークショップ「みんなで描くコミュニティ」に参加した。

「あかね」というちょっと怪しげな交流スペースには、いつか行ってみたいと思っていた。
でもなにかきっかけがないと入りづらい雰囲気だったので、今回行けたのが嬉しかった。
(やっぱり、あやし・おもしろい雰囲気だった!でも、すごく居心地がいい。)

ワークショップのファシリテーターは、地球と人のケアテイカーを目指して地元青梅で「ウォーキング・レボリューション」を実践している小川浩一さん。
http://caretaker.blog.ocn.ne.jp/
http://caretaker.blog.ocn.ne.jp/comgarden23/
http://afutures.net
                                       

ワークショップの内容は、ビデオ『懐かしい未来:ラダックから学ぶこと(55分)』と続編『地域から始まる未来:グローバル経済を超えて(25分)』を観て、一人ひとりのコミュニティの記憶を呼び覚まし、お互いに体験を語り合うことで、コミュニティはなぜ必要なのか、どうして失われつつあるのかを一緒に考えてみようというもの。

ラダックはヒマラヤの西のはずれにあり、小チベットとも呼ばれているところ。
近代化や開発の波にもまれつつも、独自の文化を守ろうとしている国で、私はかねがねこの国に関心を持っていた。

ラダックのビデオと本の詳細は、以下をご覧ください。

●ビデオの詳細
http://www.afutures.net/modules/tinyd1/

●参考書籍
ヘレナ・ノーバーグ・ホッジ『ラダック 懐かしい未来』(山と渓谷社)
http://www.afutures.net/modules/tinyd0/

                                                                  
                                                             
当日のワークショップには、店に入りきれないくらいの人が集まった(と言っても店自体がすごく小さいのでそんなに大人数ではないのですが)。
ビデオ2本を見て、参加者ひとりひとりが自己紹介とビデオの感想などをシェアしただけで、時間切れに。
でも、いろいろな方が参加していておもしろかった。

ラダックのような伝統文化やローカリゼーションを賛美する意見だけでなく、否定的な見解も出たのがよかったと思う。
こういう場に行くと反対意見を出しにくい雰囲気になるのだが、ここでは、多様な意見が出し合える自由な「場」の雰囲気が作られていたように思う。

触発されて、私も色々と考えることが多かった。
それを書き始めると時間がかかるので、今回は簡単な報告だけ。
自分がここ数年考え続けてきたことと重なる部分も多く、きちんと頭の中でもう一度整理しなおして書いてみたい。

私って、対等な関係性の中で自由に自分の意見を出し合える、こういう「場」が大好きなんだよね。
建前だけじゃなくて、自分の本当の気持ちだとか、自分の弱さとか不安とかも含めて語ることができる「場」が好き。

専門家やある種の権威的な人物がやってきて、そのお話を拝聴するだけなんていうのは少しもおもしろくない。
私は自分の頭と自分の言葉で考えたいんだ。
そして、他の人が本音の部分で何を考えているかを知りたいんだ。

そういう本音をゆっくりと時間をかけて語れる場というのは余りに少ない。
しかし、今回のワークショップは、それが成り立っていた貴重な場であったと思う。

小川さんや参加者の方々のキャラクターや、あかねというスペースが、この稀有な「場」をつくりあげることを可能にしていた。

こういう場や機会がもっともっと増えていったらいいのにな、と思う。
いろんな立場の人が集まって、話し手のコトバにきちんと耳を傾けることができる場と空間。
そういう場が増えていけば日本は変わっていくのではないかと、楽観的に思ったりもするのだ。

自分とは立場や価値観の異なる人の話をじっくりと聴く機会が少なすぎるのだ。
話を聞く前に、自分とは異質な存在を、先入観だけで排除しようとする。
そのことが一番おそろしいことだと思う。

                                                                            
参加者の中には「だめ連」を創設した方もいて、この方の話には頷ける部分が多かった。
自分の自尊心の低さとかそういう部分から考えていきたいとおっしゃっていて、それはすごく共感できる。
自分の問題と切り離して、いくら平和とか近代とかグローバリゼーションとかそういうことを考えたってだめなんだ。
すべてはつながっている。

ラダックのビデオの中には、欧米のライフスタイルが入ってきたときに、ラダックの人たちは自分達の文化が貧しくてだめなものだと思い始めてしまったというような部分があった。
「豊かさ」とは何か。
人に与えられた答ではなく、自分の言葉として、自分の「生」の中からそれを紡ぎだしていかねばならない。

彼(「だめ連」の人)は、こんどオルタナティヴラジオを開局したそうだ。
以下は、その告知。

Radio Freedom
http://www.voiceblog.jp/freedom/
息苦しくなる一方のこのセカイで、僕らはいかにして自由で創造的で歓びに満ちた生を確保していけばいいのか。気鋭のスピーカーたちがディープに語り合うオルタナティヴラジオ開局。鶴見済×神長恒一×perry

                                                            
それから、5月下旬に『ラダック 懐かしい未来』の著者であるヘレナ・ノーバーグ・ホッジが来日する。
色々とおもしろいイベントやシンポジウムなどが企画されている。
詳細は、以下のサイトで。
http://www.afutures.net/modules/news/article.php?storyid=8

                                    

ラダック 懐かしい未来 Book ラダック 懐かしい未来

著者:ヘレナ ノーバーグ・ホッジ
販売元:山と溪谷社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2006年4月20日 (木)

ディーナ・メッツガー

ディーナ・メッツガー

                                     
4月16日の記事に、ディーナ・メッツガーのことを書いたけれども、これが話題にした彼女の写真。

イベント「おっぱい祭り」に上野千鶴子さんが持ってきていた写真を、携帯電話のカメラで撮ったものだから、画像は悪いけれども。

↓以下は、ディーナ・メッツガーのHPアドレス
http://www.deenametzger.com/

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2006年4月16日 (日)

「シスターフッド」(つづき)

このブログの4月13日の記事に、「シスターフッド」というタイトルで、ラブピースクラブ主催の「おっぱい祭り」というイベントに行ってきたことを書いた。
あの日は余り時間がなくて簡潔な報告しか書けなかったので、もう少し詳しい感想を書いてみたいと思う。

「おっぱい祭り」は、パフォーマンスアーティスト・高橋フミコさんがご自身の乳がんと闘病について書いた本『ぽっかり穴のあいた胸で考えた』の出版を記念したイベントだった。
私は今週超多忙だったのだが、その忙しい合間をぬって、もう本を読了してしまった。

あっという間に読み終えた。
読み始めたら途中でやめられなくなってしまった。
それくらい、この本はおもしろい。
というか、この本に惚れた。
久しぶりに本とその作者に恋をした。

多くの人にこの本を読んでほしい。

「おっぱい祭り」で初めて高橋フミコさんという方のことを知ったのだが、高橋さんのオッパイトークを聞いているときから、この人はなんて等身大の無理のない人なんだろう…って思っていた。
自分の本の出版記念イベントで話をするとなったら、肩に力がはいってもよさそうなものなのに、そういう感じがまったくない。
1960年生まれとある。
めがねをかけていて、化粧っけがなくて、アロハを着ていて、男っぽい感じ。
なんか、やんちゃな男の子っていう印象。

自分の闘病やがんのことを、気負うでもなく、すご~くフツーのことのように、思いっきり笑いをとりながら話すのだ。
(私はこういうしゃべり方に本当にあこがれている。自分もこういう風に話せる人になりたい。)

4月13日のブログの中で「高橋フミコさんのパフォーマンスも最高だった!」と書いたら、「高橋フミコさんのパフォーマンスも素敵だったのでしょうね」というコメントをいただいた。

素敵というのか、なんと言っていいのか…。

『ぽっかり穴のあいた胸で考えた』の中に、そのパフォーマンスについてご本人が書いている部分があるので、それを引用すると…。

「唇を突き出して腕を後ろに組み、観客の前に直立し「ニップルプルプル、アップルプルプル、プルップルップルップルル」と気の済むまで延々とつぶやき続ける。
上半身は素肌にブラジャー着用。両胸のブラカップの中には、一つずつ大きなりんごが入っている。プルプル言い始める前に、少しイントロ的なアクションをする。観客の前に登場し、上着を脱ぎ、ブラの中にりんごを入れ、金槌(かなづち)を取り出してブラの上から五寸釘を軽く打ちつける。飛び出た五寸釘の頭に哺乳瓶用の乳房を引っ掛ける。
(中略)
この作品は自分が乳がんになるとは思ってもみなかった頃、半分おふざけのような楽しい気分でつくったものだ。タイトルは「ニップルアップル」。わたしたちの体はたくさんのイメージをまとっている。とりわけ身体の他の部分よりも大切にされ、女性の象徴として鎮座ましましている部分をクローズアップし、駄洒落と冗談でデフォルメし、茶化して笑い飛ばしたい…」(p21~22)

私にとっては非常におもしろいパフォーマンスだが、前衛芸術やパフォーマンスを今まであまり見たことがない人が見れば、おそらくかなりびっくりするだろう。
そこが素敵といえば確かに素敵なのだが。

                                          
本の中身も、こんな感じ。

たとえば、医者から「根治しません」と言われたときのことをフーサンが書くと、こうなる。

「「根治しません」。昼も夜も、この言葉が頭から離れない。
コンチシマセン、コンチチチ、コンチコンチチ、コンコンチ、コンコンチキチキ、コンチキチ、チキチキキッチキッチ、チッキショー!(ご清聴ありがとうございました)
ラップのリズムで絶叫したら、サンバのリズムで踊ったら、さぞかし気持ちいいだろう。」(p45)

「この次医者に会う時は
着飾ったダンサーと楽隊連れ
コンコンチキチキ鳴り物でドアを開け放ち
診察室を占拠しよう
(中略)
「人生は舞踏」と大野一雄も言っている、かもしれない。
コンチコンチチ、コンコンチ、コンコンチキチキ、コンチキチチン!」(p48~49)

                                                                
電車の中で読んでいて思わず声を出して笑い、なんど恥ずかしい思いをしたことか!
おもしろすぎるぞー!
どう、読みたくなったでしょ?

                                                    
司会の北原みのりさんからは、「ほとんど役には立たない本ですが…」と愛をこめて紹介されていたが、ものすごくたくさんのインスピレーションをくれた、あたたかさやフーサンの人間味のあふれた素晴らしい本だった。

                                                                                                       

で、「おっぱい祭り」というイベントのほうであるが、こっちも、フーサンの人柄に加え、ゲストも司会の北原みのりさんも濃いキャラですごかった~。
まじめなお勉強系のフェミよりも、自分にはこういう感覚のほうがずっとあっている。
フェミニズムは健在なり!

フェミニズムっていうと、即座に田嶋陽子がイメージされて、こわ~い女の集団だと思われがちだけど、まったくそうじゃないんですよ!
どちらかというと、弱さを絆に連帯しているという感じかな。

私がフェミニズムを好きなのは、正論や一般論ではなく、自分の当事者性というか、自分が感じていることを大事にし、そこから思考を始めるところ。

第三者的に自分は安全なところにいながら、他者のことをとやかくいう思想は、私はうんざりなんだ。

                                              
この日、上野千鶴子さんは、ディーナ・メッツガーという詩人の写真を持ってきた。
乳がんで右の乳房を切り取られたディーナ・メッツガーが、その手術痕のところに刺青をいれ、傷をも含めた自分のありのままを謳いあげているような裸の写真だった。

『ぽっかり穴のあいた胸で考えた』の中には、その写真についても、フーサンの言葉で記されている。
「上半身裸の女性が、両手を左右に大きく広げ、高い空を気持ちよさそうに仰ぎ見ている。その女性は片方の胸のふくらみが無く、乳首が無く、手術痕に沿って、つる草のような素敵なタトゥーが施されていた。彼女は自信と解放感に満ちており、乳がんサバイバーとしてのゆるぎない誇りを臆面もなく発散していた。」(p26)

この写真は、『アメリカで乳がんと生きる』(松井真知子著、朝日新聞社)の表紙として使われていて、この本をプロデュースしたのは上野千鶴子さんであるということだ。

上野千鶴子さんはこう言っていた。
「アメリカでは、乳がん治療を変えたのはフェミニズム。日本ではひとりの男性医師が自分の人生を犠牲にしてそれをやった。日本も、医者ではなく患者たちが自分の力で乳がん治療を変えていくようになったらいいと思う」と。

自分の当事者性から発言し続けてきた上野千鶴子さんならではの、女達への熱いエールだと受け取った。

その男性医師について調べてみた。

近藤誠
医師。1948年生まれ。東京都出身。慶應義塾大学医学部卒。現在、同放射線科講師。1996年に出版された『患者よ、がんと闘うな』は、ベスト・セラーとなった。
自伝的著書に『大学病院が患者を死なせるとき―私が慶応大学医学部をやめない理由』がある。

(本、読みたくなった。)

                                                   
それから上野さんが言っていたことで印象に残っているのは、
がんになっても最後まで泣いたりわめいたりしないのは恐怖に立ち向かえないからだ。自分の感情を封じ込めちゃだめ。自分が乳がん患者であるという事実を引き受けるんだ、ということ。

私が最近考えていたことと同じようなことを上野さんが言っていたから、すごく嬉しかった。
感情をいい感情・悪い感情と判断して感情を封じ込めようとする傾向が、多くの人にある。
私はそのことに対して強い疑問を抱いている。
感情に、いいも悪いもない。
感情とはおのずとわいてくるものだ。
他者にそれをぶつけるのではなく、ただそれが流れるのを許し、自分でそれを受け入れること。
あるいは信頼できる相手に聞いてもらうこと。
感情だって、必要があってわいてくるんだよ。
それが存在することを許してあげようよ。

感情も、病も、心の傷も、それらをすべてひっくるめた存在が自分なんだ。
それをまるごと受け入れることができなければ、他者のことだって受け入れることなどできないだろう…。

そのことについては、また改めてじっくり書いてみるつもり。

                                             
司会の、ラブピースクラブ社長である北原みのりさんも、はじめて話を聞いたけどいい味出してたなぁ。
フェミに対する印象がだいぶ変わった。
よみかけのままにしておいた『フェミの嫌われ方』、ちゃんと最後まで読んでみよう。
『オンナ泣き』も読むつもり。

                              

ぽっかり穴のあいた胸で考えた Book ぽっかり穴のあいた胸で考えた

著者:高橋 フミコ
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Book アメリカで乳がんと生きる

著者:松井 真知子
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患者よ、がんと闘うな Book 患者よ、がんと闘うな

著者:近藤 誠
販売元:文藝春秋
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大学病院が患者を死なせるとき―私が慶応大学医学部をやめない理由 Book 大学病院が患者を死なせるとき―私が慶応大学医学部をやめない理由

著者:近藤 誠
販売元:講談社
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フェミの嫌われ方 Book フェミの嫌われ方

著者:北原 みのり
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オンナ泣き Book オンナ泣き

著者:北原 みのり
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2006年4月13日 (木)

シスターフッド

きょう、ラブピースクラブ主催の「おっぱい祭り」というイベントに行ってきた。

パフォーマンスアーティスト・高橋フミコさんの、ご自身の乳がんと闘病についてまとめたエッセーが一冊の本になり、その本の出版を記念したイベントだった。

ゲストは、上野千鶴子(大学教授)、浜野佐知(映画監督)、出光真子(映像作家)、宮淑子(ジャーナリスト)、司会は北原みのり(ラブピースクラブ社長)という豪華版。(敬称略)

会費は、本代、軽食・飲み物(アルコール有り)・ケーキなど込みで3500円。
フェミ系のイベントってどうしていつもこんなにリーズナブルなんだろう!!

乳がんとか闘病とかというと、どちらかというと深刻なイメージがあるが、高橋フミコさんのトークにはそういう深刻さはあまりない。
(トークの間じゅう笑っていたな、私。)
がんである自分自身をまるごと受け入れ、しかもエリート男性医師が中心の外科医療までをも毒をこめて笑い飛ばしてしまう。
イベントの最後に行われた、高橋フミコさんのパフォーマンスも最高だった!
(高橋さんのこと、初めて知ったけど、すごく好き。)

しかし、上野千鶴子さんの話は相変わらずおもしろいなぁ…。
絶対にぶれないし、それになんというか、強い愛のオーラを常に放射している人。
上野さんの話を聞いていると、頭の中がすっきりと整理されてきて、自分が自分のままでオーケーだと思えてくる。

浜野監督の過激トークも相変わらず絶好調。

会場にいる人たちも、すごくいい雰囲気を発している。
小さなスペースだから、ゲストと参加者の差などあまりない。
みんなその場にいて、いっしょに座って、飲んだり食べたり、げらげら笑ったりして楽しんでいる。

ジェンダーフリーバッシングなんて本当にどこぞにあるのだろうかと思うほど、のびやかで自在に生きている女達がこんなにここに集まるなんて。

久しぶりに、シスターフッドの心地よさを存分に味わった。

自分らしく生きることを決してあきらめない女達よ。
私は、あなたたちのことが大好きだ。

詳しい感想などは、また明日書くつもり。

それから、上野さんが「自分の感情を封じ込めちゃだめ」と言っていたが、感情についても明日以降に書いてみたいと思っている。
(ネガティブな感情は、悪いものじゃないんだということについて。)

以下が、高橋フミコさんが書いた本。
帰りの電車の中で最初のほうだけ読んだけど、すごくおもしろい。

                        
                                          

ぽっかり穴のあいた胸で考えた Book ぽっかり穴のあいた胸で考えた

著者:高橋 フミコ
販売元:バジリコ
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2006年3月26日 (日)

父親の誕生日会

きょうは、四川料理店で私の父親の誕生日会。
父親&母親、私&夫、弟夫妻&こども2人で、食べて、飲んで、また食べまくった。
おなかいっぱいで死にそう~。

オーダーした料理はすべて写真に撮ったのだけれども、さっき確認したらすべてぼやけていた。
やっぱりマクロで撮らなければだめだな…。

父親の誕生日会なのに、料金はいつも父親がすべて支払うのが我が家のしきたり。
ま、いいか。
父親自身がそうしたがっているんだから。

弟夫妻の子ども2人は、だいぶおとなっぽくなってきた。
下の女の子は、こんど小学校1年生。
つい最近まで、奇声を発しながらソファの上でのたうちまわったり、自分の兄にパンチをくらわしたりしていてどうなることかと思っていたのだが…。

それにしてもやたら忙しい3月だった。
毎年3月は忙しいような気がする。

東京都現代美術館でやっていた若手作家による日本画展を見に行きたいと思っていたのに、きょうまでだった。見そこねた。
チラシを見た限りでは、アヴァンギャルドでシュールレアリズム的な作風の日本画も多くて興味を持っていたのだが。

私が大学の卒論で扱ったテーマはシュールレアリズム。
瀧口修造というシュールレアリズムの詩人を扱った。
アートに関しても、既存の表現方法を超えていくようなスタイルに興味がある。
なので、ぜひ見てみたかったのだが。

そういえば昨年も、ちょうどこの時期に東京都現代美術館で女性アーティストの作品展がやっていて、それも見に行きたかったのに見逃したんだっけ。

ばたばたしている間にヴェンダースの新作『アメリカ、家族のいる風景』も見逃しちゃったかも…と慌ててチェックしたらまだやっていた。よかった。
絶対見よう。
見てブログに感想書こう。

本の感想などもブログに書きたいと思っているんだけれども、時間がなかなかつくれない。

そういえば一週間前に、このブログに「農に関心をもったわけ(1)」というのを書いて、つづきは次回に書くとか記しておきながらすっかり忘れていた。

おいおい、書いていくつもりです。

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2006年3月24日 (金)

篠笛

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きょう(日付がもう変わっているから昨日になるか)は、2週間に一度の篠笛のお稽古の日だった。
またもやほとんど練習しないままお稽古に行ってしまった。
先生、ごめん。

篠笛をうまく吹きたいとか上達したいとかいう野心が、私の中には余りない…。
だから練習をしない。(居直っても仕方ないが。)
でも一生懸命教えてくれる師匠に申し訳ないので、稽古の直前になると慌ててほんのちょびっと吹いてみたりする。

しかしそれでも少しずつ吹けるようになってきた気がする。
継続は偉大なり。

篠笛を最初に習い始めたのはいつだっけ?
4年くらい前だったような気がする。

私の女友達がとある著名な和太鼓奏者とつきあっていて、その人のコンサートを見に行ったのが和楽器に興味をもったきっかけだった。

コンサートの最後のほうで、彼が一心不乱に大太鼓を叩いていた。
その時、音が天に向かって上がっていくのが映像として見えたのだ。

楽器というのは、天(神)と人との通路をつくる装置なんだな、と思った。

私も太鼓をやってみたいなぁと友人に言った。
でも家で練習するわけにもいかないし、家でも気分転換に演奏できる和楽器ってないかなぁと聞いた。
「篠笛とかがいいんじゃない?」と彼女は言い、それで始めたというわけである。

最初は国宝のお弟子さんのところで篠笛を習った。
とにかく篠笛というのは、音を出せるようになるまでがたいへん。
でもなんとかそこまでたどりついた。

しかし、音が出せるようになってから吹く曲が「赤とんぼ」とか「荒城の月」とか、哀愁漂うなんだか気が滅入るような曲ばかりなのだ。(個人的な感想だけど。)
それから、その師匠が笛を楽しそうに吹いていないということも気になった。
師匠が楽しくなさそうなのだから、習っている方も楽しくなくなる。
結局一年くらいでやめてしまった。
もし現在の師匠・朱鷺たたらと出会わなかったら、きっともう篠笛をやめていたと思う。

一年半くらい前にたまたま師匠・朱鷺たたらのライブを見た。
そして、びびびっときてしまったのだ。
私が篠笛を習うのはこの人しかいないと思った。

伝統に縛られない、音と戯れるかのような彼女の奏法は素晴らしい。
朱鷺たたらの笛の音を聴いていると、竹に穴をあけただけのあんなにシンプルな楽器からよくもこれだけ多彩な音が出るものだと感心する。

自分で自分の笛を吹いてもあんな音色はけっして出ないんだけどね。
練習すればできるようになると師匠は言うのだが…。

師匠の譜面は五線譜だ。
普通、篠笛は数字譜を使うのだが、他の楽器をやっている人や他国の人たちともセッションできるように、師匠は五線譜を使う。

最初私は五線譜がまったく読めなかった。
そのことに自分でもものすごく驚いた。
だって私は幼稚園から中学1年生くらいまでずっとピアノを習っていたのだから。
でもピアノを習うのも弾くのも、いやでいやで仕方なかった。
いつも練習をさぼってデパ地下でうろうろしていた。

そもそも我が家は、クラシックを聴く家庭ではない。
家にはステレオもなかったし、LP(当時はLPだった!)の一枚もなかった。
父親がカーステレオで聴くのは北島三郎。風呂の中でうなるのは浪花節。
こんな家庭なのに、子どもにピアノを習わせるということ自体に無理がある。
親にとってピアノというのはある種のブランドであったわけだ。
でも彼らの見栄を満足させるためにピアノを習わされている子どものほうはたまったもんじゃない。

狭い和室にピアノがどんと置いてある。
そこにはコタツがあって、父はそこでいつもテレビを見たり新聞を読んだりしている。
ピアノの練習なんてできる環境じゃない。
ときどき練習をしようとすると父がうるさいと言う。(だったら習わせるなよ…。)
練習をしていないのだから当然お稽古にも行きたくなくなる。
でも親の顔を立てて、やめたいとも言えなかった。

自分にとってはそのことがものすごく苦しかったんだろう。
その苦しさが自分で自覚できないくらい。
ピアノ以外にもバレエだとか水泳だとか習字だとか塾だとかいろいろやっていた。
(すべて親の意思であって、私の意思はひとつもない。)
ぜんぶ中途半端で何ひとつ「もの」にならなかったけれど、なかでも一番嫌いなのがピアノだった。

でも、いくらなんでも五線譜くらいは覚えているだろうと思っていたのに、呆れるくらいきれいさっぱり忘れていた。
人間はいやなことは記憶の中から消し去ってしまうものらしい。

ピアノを習っていたおかげで音楽も大嫌いになった…。
(しかし不思議なもので、ピアノを習わされていなかった弟のほうは今、音楽家になっている。)

しかし、篠笛とそして師匠・朱鷺たたらと出会ったおかげで、今また音楽が少しずつ好きになり始めている。
五線譜もだいぶ読めるようになった。(練習は全然してないんだけれども…。)

私が篠笛を今好きでいられるのは、篠笛の魅力以上に、師匠の人間的魅力によるところが大きいと思う。生き方だとか、音楽に対する考え方だとか向かい合い方だとか。
師匠を見ていると、音楽と触れ合うことが私まで楽しくなってくる。

執着やとらわれがなくて、なんだか宇宙人っぽい。
それに話もおもしろい。
師匠は下戸なのに、酒を飲んで語り合った。
私が一方的に語っていたのかもしれない。(実はあの日は楽しくて飲みすぎてしまい記憶がない。)

ライブでも必ず「笑い」をとることを忘れない。
さすが関西人の京女。

しかしそれにしても、朱鷺たたらのお弟子さんたちはどうしてあんなに濃いキャラの人が集まっているのだろう。
まるで師匠に吸い寄せられたかのように…。

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