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2009年12月24日 (木)

矛盾

ここに書いていることは、私の心の中のほんの一部に過ぎないのです。
私の心の中には、相矛盾する部分がいっぱいあって、ここに何かを書いたとしても、心の中の別の自分が正反対のことを考えていたりする。人間ってそんなに単純なものではないし、矛盾を抱え込んで生きるのが豊かさだと思っていたりする。
人間の心の中や意見が白黒できれいに線引きされてしまうのは、逆におそろしくて、私はそれを慎重に避けているとも言える。

人の考えも意見も、自分の考えも意見も、気持ちも思いも、所詮は恣意的で相対的なものであり、世の中に真実なんて何一つないと感じている。

自分の心の中には、常に「揺れ」や「迷い」や「矛盾」や「葛藤」があり、私はそれを歓迎するし、それをけっして排除するまいと思っている。
お互いがお互いの価値観や意見や考え方を正しい、これこそが真実だと主張し始めたときに、そのときに紛争は生じるのだ…。
だからといって自分が必ずしも平和的であるわけなどあるはずがなく、常にいらいらと苛立っている。だけど、この苛立ちすらも排除せずに、歓迎する。これも私の一部なのだと。

人間は、弱くて、愚かで、白とも黒ともつかないグレーな部分を生きている存在だ。だからこそ、美しいのではないか。神ではない人間としての豊かさ・美しさ。人間臭さが私は大好きだ。だから私は「愛」とかいう言葉を陳腐だと感じ、毛嫌いしてしまう(このヘンクツさ)。間違える権利と言ったのは、鶴見俊輔だったけど、彼もまた人の弱さをよく知っている人だった(まだ生きてるけどね)。

とはいいつつ、なかなかバリューフリーにはなれないけどね。
子供の頃から異常に正義感が強く、中学生の時にひとりで暴力教師反対運動をやり、以来、権威や不正や差別に反対・反発し続けながら生きてきた。おかげで随分いろんな人と喧嘩したけど。
そういう自分の立ち位置に疑問を感じたのは、とある精神科医と出会ってからかな。
彼は本当にバリューフリーの人だった。グレーゾーンでしか生きられない、弱くてずるくて卑屈でウソつきで傲慢でわがままで自己中心的で…そんな人をも愛した、というか、そんな人こそ好奇心をもっておもしろがった。(彼いわく、愛とは好奇心や関心のこと。)
そういうふうにしか生きられない人間もいるということを、多くの人と出会う中で骨身にしみて理解した人だった。
私はいつも正義という剣を振りかざして人を裁き続けてきたのではないか、と、私は彼を見ながらそう思った。自分はそんなに正しいのか、自分はそんなに立派なのか、自分はそんなにえらいのか、と。

しかし、私はいまだに正義が大好きなんだよね。血が燃える。
自分のためだけに生きることがどうしてもできないんだ。
自己保身だとか自己実現だとか、自分のことしか考えてない連中を見ると猛烈に腹が立つ。
そのことがスピリチュアルな世界から離れた一番大きな理由なんだけど。
湯水のように金を使って、透視だとかオーラだとか過去生だとかいい加減にしろよ!と。それがスピリチュアルなのか、と。私はそうは思えねぇ…。世界の反対側には食うことすらできない人もいるというのに、なにがオーラだ!と怒り狂ったねぇ、一時期の私は。今は自分のそういう正義感もまた危ういののだ知っているけど。

なんでもあり、なんだ。
なんでもありのなかで、人がどう言おうが、人からどう思われようが、今この瞬間の自分が何を選択するのか、それしかないし、それのみが真実だ。

マイケル・ジャクソンの映画をずいぶん前に見た。
感想書こうかなぁ~と思っていたら、私の知人が次々に観て誉めているのを聞き、自分の感想を言うのがためらわれた。

確かにマイケルは天才だと思った。即興的に出てくるアイデア、インスピレーション、ダンス、歌…、それらを映像で見れたのはすごくよかった。
だけどなんで彼のメッセージが「地球を守ろう」という表層的なところに行っちゃうのかねぇ。誰でも言えるような、そんな表層的なメッセージに。
自分の痛みを覆うために、そういうメッセージを使っていると私には感じられた(あくまでも私見だが)。
彼が人間関係の中でどんなにだまされ、深い傷や痛みや苦しみを負ったかは最近放送されたテレビのドキュメンタリー番組で知ったが、その傷や痛みのなかにおりていきそれと向かい合っていたのであれば、彼のメッセージや表現は別のものになっていたのではないか。それを見ないようにするために、「地球を守ろう」というメッセージを持ってきているから、だからあのメッセージはあんなに陳腐に聞こえるのではないか…。

だが、これもありだ。ありなんだ。これを批判するのもありだし、これに感動するのもありなんだ。

なんか、何を書きたいのかよくわからなくなってきた。

ひとつだけ、お願い。
最近私の知人で、私のブログを読む人が増えています。
上に記したように、ここに書いていることが私の感じていることのすべてではないし、ここに「あること」を書きながらも同時に別のことを考えている自分もある。
自分の全体、自分のすべてを、言語化するのは無理だし、矛盾している両端を常に行ったり来たりしているのです。

なので、ここに記したことで私を先入観で見られると非常にきつい。この人はこういう人だ、と、書いた部分を切り取って判断されるのも非常にきつい。
相対している会話の中で、ブログで発言したことを言及されるのも余り好きではない。
あくまでも匿名のブログだし、基本的にはブログの存在を知人には教えてないので…。
勝手にみつけちゃったのは仕方ないとしても、あくまでも匿名の人間が言っている、匿名の言説であるとご理解いただけると嬉しいです。

私はナマモノです(笑)。
ブログの文章やライターとして書いた言葉が「私」なのではなく、ナマの目の前にいるいつも不機嫌そうな人間が本物の私です。
ナマの今存在している私が発している言葉やあり方が、その瞬間のリアルな私です。

直接私と会う機会のある知人の皆さんは、言語化された虚構の私ではなく、ナマモノの生きて存在している私と向き合っていただけたら嬉しいです。

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2009年12月23日 (水)

もう一年経過

更新できぬまま月日が経過してしまった。
アクセス解析をみたら、私がいない間でもこのブログを長時間丹念に熟読してくれた人がいたようだ。ありがたし。

それにしても今年一月初旬に父の膵臓がんが発覚し、在宅で5月に看取り、そのあと相続のことで家族問題が可視化し、今に至っている。
その間、失明した犬の世話をしつつ、親しかった知人の自殺を知り、もう精神状態ぐちゃぐちゃで、やっていた畑も放置。
しかも私はウツ体質。半日くらい布団から出られないことも、当たり前。なわけで、一年間ほとんど家の片付けもできずにいる。

あぁ、なんだかなぁ、もう。
とにかく家の中がひどい状態になっていて、どこから片づけていいのやらわからない。
失明した犬がいると、半日家を空けただけで、帰宅したら家の中がウンチだらけになっていたりオシッコだらけになっていたりする。

自分の親が死んだあとの精神状態、さらにそれが相続トラブルに発展したときの精神状態を、たぶん経験したことのない人は想像できないだろう…。

今はただ、新しいことをなるべく何もしないで、少しずつ過去のものを整理し片づけていこう…。

知人は数年前に死んでいたらしい。
それを知ったのは最近だけど、死んだと聞いてすぐに自殺だと聞く前にわかった自分が悲しい。
知人とは私のもと上司。広告関係のシンクタンクみたいな会社に勤めていたときの社長だった。一緒に出張で、ロス、ボストン、ニューヨーク、マウイ島に行った。仲がよかった。しょっちょう飲みに行っていたのに、2004年のイラクでの日本人人質バッシングのときに、考え方が違って意見が対立し、それ以来連絡をとってなかった。あのときから既に彼は虚無感に支配されていた…。

彼との、笑える思いではいっぱいありすぎる。
彼はいつも「ボクのことを社長と呼ばないでくれ」と言っていた。で、一緒に新宿歩いていたら、キャバレーの呼び込みが「社長!社長!」と彼を呼ぶ。彼は「なんで社長だとわかっちゃうんだろうな…」とか言ってたっけ(笑)

いくらでもエピソードがあるのに、今はそれを書いている精神的余力がない…。

大学卒業後、私を親友として本当によくしてくれた上司がふたりいた。ひとりは自殺したシンクタンクの社長。もうひとりはコピーライターをやっていたときの上司のデザイナーで病気で死んだ。ふたりとも、仕事もろくにせず、遅刻ばかりしていた私を、少しもとがめず、おもしろがっていつも飲みに誘ってくれた。会社もすぐやめちゃったのに、そのあともずっと飲み友達でい続けた。
私は人に恵まれてここまでやってこれた、と、つくづくそう思う。

また改めて、書けたらいいなと思う。

更新していなかった間に、なんとか気分を変えたいと、日帰り温泉に行ったり映画に行ったり本を読んだりしてた。
映画の感想や本のことなども書きたいけど、また、改めて。

最近、知人で私のブログを読む人が増えてきたため、本音を書きにくくなっている今日この頃。ブログを閉じて、twitterでもやろうかな…。

私はまず自分自身が生きるのがラクになりたいし、その自分の心の過程をさらすことで、本当にしんどいと感じている人がラクになれればもっといいと思っている。
残りの人生はそのために費やしたい。
死んだ社長を、自分だったら、自分が近くにいたら、死ぬことをやめさせることができたといううぬぼれに支配されている。
○○さん、どうせ人はいずれ死ぬんだから、死ぬまで生きようよ、と。
なにやっても、どう生きても、どうせいつかは死ぬんだから。
なにも達成しなくても、私は○○さんのそのままの存在がいてくれるだけで、助けられるのだと、生きていたら言えたのに。くそぉ、なんで私に黙って…。

父は、ガンが発覚してからもなんとかして生きたいと生きることに執着し続けた。
だけど友人の方は、大きな家も別荘も美人の妻も二人の娘も彼になついている大型犬もいたのに、会社も成功も金もあったのに、生きることに執着できなかった。
生きるってなんだろう。つくづくそう思う。もっと考えてみなくっちゃ。この考えを、私は私なりももっと深めていかなければ……。
それだけが、ふたりに対して今私ができる唯一の恩返しだ。

○○さん、大型犬飼い始めたとき、「この犬、○○○(私の名前)と同じくらい言うこと聞かないんだよなぁ」って言ってたっけ(笑)、私が最近はユングとかフロイトとかを読んでいると言ったら「相変わらずだな、少しはおとなになれよ」と言ってたっけ、私と○○さんは考え方や雰囲気がそっくりだといつも周囲の人達から言われたよね、ニューヨークでもマウイ島でもふたりでばかばかりやったのに、そういう死に方って少し予定調和的すぎるんじゃないの…?
くそぉ、そのうち行くから、草葉の陰で待ってろよ、ちくしょう…、先に死にやがって………。

これを書きながらも、ずっと涙がとまらない…

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2009年11月 9日 (月)

聖と俗

ほんと、天中殺か!?というくらい、いろいろなことが我が身に降りかかってくる今日この頃。
ある人からは、光の扉を開く前の暗闇の状態と言われたが…。
自分の気持ちとは裏腹に、スピリチュアルなほうにどんどん引っ張られている感じ。
そっちのほうに引っ張ろうとする力が働いているようで、本人は少々当惑気味。
家の中にもなんか霊的(?)なことがいろいろと起こったり、自分の身体感覚や犬にも影響が。
悪い影響ではないと思うけど。でも、そういうことにまだ対処できない。
(ま、書いていることがよくわからないとは思いますが…。言葉を濁しているし。)

とはいえ、私はスピリチュアルにありがちな生真面目さや欺瞞や堅苦しさや表層的なかっこつき美しさだとかかっこつき愛だとかかっこつき平和だとかが大嫌いなんだ。
清く正しく美しくっていうやつが、どうしようもなく耐え難い。
だいたいそんなものは、たいてい欺瞞だったり、何かを抑圧していることが多いからね。

どうして、スピリチュアル系の人たちというのは、そろいもそろって、表面的に耳障りのいい似たような陳腐なことばかり言うんだろう。関心の対象もみんな似ていてげんなり。私の偏見かもしれんが。

で、きょうは、筋肉少女帯のライブへ。いや~大槻ケンジいい味出してました!あの脱力系が好き。
意味もなくぬんちゃく振り回しているオーケン、笑った。
だめな自分のままそれをメッセージにしたり、ライブでもそのまんまでいるオーケン、かなり好きかも。
私の悪友の精神分析医S・Sとどこか似ているような気が…。顔じゃないよ。脱力系で、なんでもありで、自分も人もジャッジしないで、人間の弱さをよく知っているという点で。
たぶん、スピリチュアリストの言葉より、筋肉少女帯のメッセージのほうが何十倍も何百倍も人を救っていることは確実。こういうのがほんまもののスピリチュアルだと私は思った。
それにしても、スピリチュアル系・癒し系音楽って、どうしてあんなに陳腐なんだろう。
ほんとのスピリチュアルはもっと突き抜けていて、ファンキーで、もっとダイレクトに魂に届くものなんじゃないか。かなりエキセントリックだと想像する。

私も底つきしちゃって、執着も欲もある意味燃えつきてしまったようなもんなのだから、残りの人生はこのくらいはじけてもいいんじゃないか、そう自分にOKを出した。
とりあえずは、ねぶたまつりとか阿波踊りで踊り狂いたいという願望がふつふつと…。
(はじけかたが、まだまだ地味だが、とりあえずはこの辺から。)
つまり、自分のちっちぇ~枠から自分を解放してやりたいということだな。

一方、遠藤周作をじっくり読み返したいという気持ちも今起きてきている。
思えば、私に一番影響を与えた人って、遠藤周作だったかもしれない。
彼の作品を小学生のときに読まなければ、神とは何かなんて考えたりはしなかった。
また、彼は人間の弱さをも描いている。
そして「弧狸庵シリーズ」は、大槻ケンジを超えたお馬鹿っぷり。
聖と俗のこの共存がいいんだよなぁ。

なんて、自己確認のためにエントリーでした。

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2009年10月23日 (金)

豊かさ

自分のことを少し書きたくなった。

自分がウツになったときのこと。
もともとウツっぽかったのは確かだけど、ほんまもんのウツになったときのこと。
すべてが順調にいっている時だった。
ライターとして署名原稿を書くようになっていた。家も買った。高学歴高収入の夫もいた。長年の夢だった犬も買った。バブルの恩恵で海外旅行もいろいろ行って、海外取材もいっぱいして、青山でシャンパンを飲みキャビアを食べた。

でも…。
いや、だからこそ、ウツになった。

これが私の望んでいたことなのか、と。
人が望むようなプチ成功や幸福はなんとなく手に入ったような気がした。
でも私がほしかったのは、こんなもんだったのか。
もっとがんばれば、もしかしたら小説かなんか書いて賞でも取れるかもしれない。必死にやれば力技でできてしまうこともある。でも、たぶん自分は、何を手にしてもけっしてこの空虚感からは絶対に逃れることができないのだ、と、それがわかった。

こんなこと書くと、失われた世代の人から怒られるかもしれない。自分達には、はなからそんなものなかった、と。でも、私には私の苦しさがあった。それをごまかすことができない。

世の中やマスコミが言う、いわゆる「幸せ」だとか「成功」だとか。
そういうものは私を絶対に幸せにしない。それがわかってしまったときの空虚感。どこへ向かって進んでいったらいいのかわからない、何をしても無意味だという感覚。もはや何もしたくないという感じ。
それから、指一本すら動かすのが苦痛であるようなウツ状態に陥っていった。

いま思うこと。
世の中や周囲やマスコミや社会が発信している「幸せ」の定義が、もしかしたら人を苦しめているのではないか、と。これが豊かさだ!これが幸せだ!これが成功だ!と強迫的に追い立てられる。
でも、一体、豊かさとはなにか。答えてくれよ。金がいっぱいあること?じゃあ、その金を使って何をしたいんだ?したいことがなかったら、金なんかいくらあっても意味がない。使わなければ単なる紙切れ。私はしたいことがわからないんだ。生きる意味もわからないんだ。なんで、あくせく働くんだ?
食うために働くのか?だったら、金じゃなくて食うものをつくればいい。

そもそも私は昔から欲望とは無縁だった。ほしいものがあまりなかった。でも人並にほしがらなきゃいけないような気にさせられた。でも、それこそが狂気じゃないのか。ほんとはほしくもないものをほしいような気になり、それを得るために自分の大切な時間も人生も費やす。
金があったら、何をしたい?ヨットを買う?ブランドものを買う?私、思いつかない…。

ウツになった。そして、セラピーグループに集まってきた色んな人の話を聞きながら、自分は何を求めていたんだろう、何がほしいんだろう、どんな人生を求めているんだろうと考え続けた。何年も。何年も。そうしてわかった。私がほしいのは、すごくシンプルなこと。自分が自分のままでいて許される関係と居場所。そして、汗水流してそのあとに食べるシンプルな食事。それだけでいいんだな。それ以外ほしくないんだな、と。
そして、自分以外の人が幸せそうにしている姿、楽しそうにしている姿、本当の自分を生きている姿を見るだけで私は幸せになれる。こういうのが偽善だと思ってたけど、でも自分のなかに確実にそういう自分がいる。
そういう人間が、器用貧乏でたまたま成績がよかったというだけで、競争原理のなかでなんとなく世の中の流れにのってしまう。そしていつのまにか、ほしくもないニンジンを追いかけて競争レースを走っている。レースから下りたら行き場がないという不安の中でただただ走り続ける。これほど不幸なことはない。

いろんな人の話を聞いていて思ったこと。陳腐だけど、みんなただ愛がほしいだけなんだ。愛を得るには何か特別なものがなきゃだめだと思っている。だから必死に、自分以外の何者かになろうとするんだ。

でも、よくよく考えてみたら、自分が自分であるだけで、役にも立たず、労働もせず、それでも存在が許されている場が少なすぎるのだ。

下記は、生きる意味を失っていた私を救ってくれた本。
『生きる意味』(上田紀行著、岩波書店)
『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(ダグラス・ラミス著、平凡社)

今は、金もないし、成功もしてないけど、でも幸せ☆
土の中にまいた、小さな小さな種が芽吹くその奇跡にいちいち感動する。
16歳の失明した犬が、意味もなくウォンと泣いたときの歓び。
新しく出会ったずっと年下の友が、絵文字いっぱいのメールくれて、なんだかやたら嬉しくて絵文字返ししたときの、お腹のなかからほんわか湧いてくるあったかい感じ。

昔はそういうことに気づかなかった…。

海外なんか行かなくても、道端に咲いている小さな花の色の鮮やかさに、涙が出そうに感動する。
オーロラを見て感動するより、名もない花に感動できるほうが、もしかしたらずっとずっと豊かなのではないか。当たり前のことに満足できて、感動できて、幸せを感じること。たぶんそれが最高の豊かさ。金を費やしても少しも充たされなかったのは、私の心が貧しかったからだ。

いま、たぶん、みたされている。
自分が自分であることに。

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支援

支援を自分の自己実現や自分の成功に結び付けて考えるやりかたが、自分はひどく苦手だ。社会でさんざん搾取されてきた人が、またビジネスの道具として使われる…。
DVもトラウマもそうやって市場化され、セラピストの向上心や野心の道具として使われるのを、私はさんざん見てきた。

べてるが好きなのは、当事者が自分達で自分達のために楽しみながらビジネスをやっているから。
楽しみながら、無理しないで、ミーティングをやりながら。
彼らは誰かがつくった場で、与えられたことをやっているのではない。彼ら独自のやりかたで、彼ら独自の仕事の仕方をしている。それがすごい。
そして、その魅力に自然といろんな人が巻き込まれていく。

べてるの設立に関わったソーシャルワーカーの向谷地さんは、医者や専門家が彼らに教えるのではなく、専門家が彼らから学ぶべきだという。
また、向谷地さんは、べてるの家を自分の自己実現に使ってはならないと、それはわきまえているとも言っていた。

いずれにせよ「楽しい」が基本かな。
もし私が当事者なら(当事者でもあるのだけれど)、上から何かをされたら、余計なお世話だと不愉快になるだろう。病気である分だけ自分のほうが豊かなんだと逆切れしそう。
一緒に何かして楽しもう!というなら話は別だけど。
そもそも健常者、障害者という区分自体が自分には疑問だ。自分をもっともっとと上へ上へと駆り立てている人達のほうが狂気であるとしか私には思えない。
みんな多かれ少なかれ病んでいて、それを恣意的に線引きしたのは、そのほうが都合がいいと考えた人達だろう。

ソウル・フラワー・モノノケ・サミットが好きなのは、やっぱり楽しんでいるからかな。
困っている人のためになんかやろう~なんて余り思ってない。
もっと脱力していて、いい加減で、自分達自身もおもいきり楽しんでいるから好き。
あたまでっかちの思想でなく、とりあえず楽器を抱えて行って、そこにいる人達と一緒にまずは楽しむ。
自分達も自分達の音楽も異形だと思っているのではないか。自分もアジールにいる人間のひとりだと思っているから、ひとごとじゃなくなってくる。
先日久しぶりに聞いたライブは最高だった!

自分はまともで、癒す側の人間で、そういう自分が困っている人のために何かをやってあげると思っている人が一番おそろしい。セラピストをやっている人にそういう人が多いけど…。
それでうんざりして、セラピストになるトレーニングをやめちゃったんだっけ。

まぁ、つまり、私には私のやり方がある。他の人が私とは異なる考え方をもっていても否定しない。でも、その考えを押し付けられたらひどく不愉快になる。そして、いや私のほうが正しいんだと言い返したくなる(いま、それをやっちゃっているんだけど。)

その不愉快さが、私をついつい饒舌にしてしまっている。

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2009年10月12日 (月)

犬、カムイ外伝、HEROS

寒い。いろいろばたばたしていて、衣替えもしてないうちに、すっかり寒くなってしまった。
きょう衣替えしようと思ったけど、結局できずしまい。今週中にしなければ、着る服がない。

犬。
うちには、16歳のオスとメスの老犬が各一匹ずついる。
オスは1階、メスは2階にいる。
数年前にメス犬が失明してしまい、やみくもに歩いてオス犬にぶつかって、オス犬に噛まれたりしていた。メス犬はすっかり怯えてしまい、ごはんも食べなくなってやせていった。
ちょうどその頃チベット祭り(だったと思う)とかいうチベット仏教のお祭りがあり、そこに遊びに行ったら護摩焚きをやっていたので「飼い犬二匹が天寿をまっとうできますように」と祈願した。
そのあと、1階で一緒に生活していた二匹を別々にしたら、メス犬のほうも少しずつ元気になってきて、護摩焚きのせいかどうかわからないけど、まだ二匹とも生きている。

この二匹が16歳にも関わらず、いまだ発情期がある。去勢せずにきてしまったからか。この年齢になって発情期があることに獣医さんもびっくりしている。でも、二匹がお互いを呼び合って鳴くので近所迷惑にならないか心配だ。

発情期じゃない時でも、昼間は別々にしている二匹を夜になると2階の寝室で合流させていた。じゃないとひとり残されたオス犬が夜中じゅう鳴いてうるさいから。
が、発情期の今は、二階で二匹を一緒にするとそれはそれでまたタイヘンな騒ぎだ。

目の見えない足の弱っているメス犬と、痴呆のはいったオス犬の間で妙な交流が夜中じゅう行われていて、眠れない。
しかも、メス犬は、失明している上にアレルギーで下痢気味。失明した犬が下痢になると部屋の中がタイヘンなことになる。自分でした物を踏みつけ、その足で部屋を見えない目で歩きまくるから。
昨晩も下痢をしていたらしいが、疲れていた私は気づかず爆睡。起きたら自分の布団がうんちだらけになっていて、その中で寝ていた…。

なぜこんなことを書くかといえば、大島弓子の『グーグーだって猫である』を読んで触発されたから。
1巻と2巻を読み、2巻を読み終わったとき、号泣して泣いた。
そうなんだよ。猫だって犬だって、人間以上に怖がりで不安で傷つく。そのことを大島弓子が丹念に描いてたから。
あ~~!私も動物が大好きだ!!!
大島弓子は久しぶりに読んだ。やっぱり稀有な漫画家だ。ほかには、こういう人いない。『バナナブレッドのプディング』大好き。

昨日は、映画→日帰り温泉→温泉内で垢すりorマッサージ、という、私の定番のストレス解消三点セットをやってきた。
観た映画は『カムイ外伝』。監督の崔洋一も、脚本のくどかんも、主演の松山ケンイチも、みんなどうしちゃったの?というくらいキレがなかった。原作が他にある場合でも、『GO』のくどかんの脚本は素晴らしかったのに…。

米ドラマ『HEROS』シーズン3がレンタルビデオショップに並んだがために、眠れない日々が続いていたが(借りてくると観終わらないと眠れない)、全部観終わってしまった。おもしろいっつーの!それで寝不足で明け方寝て起きたら、ふとんがうんちだらけになっていたというわけ。

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2009年10月 9日 (金)

自分を赦す

私は人間の弱さや偏りが好きだ。
人間のなかにあるどうしようもなく人間臭い部分、神のように完璧じゃないところ、そういうところに惹かれる。
そういうグレーゾーンでしか生きられない、人間の美しさをみつめていたいと、思いながら生きてきた。
人を、自分が思っている理想像というメガネで見るのはやめようとずっと思っていた。
ありのままのその人を、すべてひっくるめて赦し、自分も赦される関係を求めているから、ついついセラピー的空間におもむいてしまうのかもしれないな。

でも、それもまた私なりの理想であって、だからそれが他の人との理想との間で齟齬を生じさせる。
だけどそれにこだっわっていこう。
それが私の生き方だから。

自分は自分にしかできない方法や生き方がある。
そうしかできないし、そういう自分を赦していこう。

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2009年9月22日 (火)

つぶやき

私は自分のかたくなな屈折さを愛しているが、同時に、自分のまわりにいる人の無垢さ、無邪気さを愛している。自分にはないもの。それが自分を救ってくれる。
ジグゾーパズルの一片のように、どうしようもなく偏っている命のひとつひとつが組み合わさって、この「世界」という崇高な絵画を構成し、美しい音楽を奏でている。
私はいつも辺境の地の殺戮にいやおうなく思いを馳せるが、その人はただただ自分の身のまわりの事物に美しい無垢なまなざしを向ける。そのどちらかに優劣があるわけではない。

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2009年9月 2日 (水)

勝手に引用

北原みのりさんが、のりぴーのことをブログに書いていて、そうそうそう!と思ったので勝手に引用♪

「北原みのり オンナメディアブログ」より
http://www.onnamedia.com/kitahara/?itemid=117

破滅するのは私の自由
コカインで捕まった時、サガンはそう言ったそうだが、ノリピーは自ら破滅する自由すら奪われて、社会的にとことんとことん殺されかけている。そういえば、テレビでタレントの西川史子さんが「芸能界に帰ってくるのは許されない」みたいなことを言っていた。ふだん毒舌を売りにしているのに、こういう所では他人の事件を利用して「良識」をアピールするような人、最悪だと思う。

何を隠そう、私は、ノリピーが大好きだった。顔が好き。あの意地悪さも含め、あの野心も含め、ただものじゃない感じが、大好きだった。ノリピー事件の教訓があるとしたらさ、パートナー選びには気をつけろ、ってことじゃないの? 薬物購入ルート(暴力団だから?)は絶対に口を割らないのに、妻のことはペラペラペラペラとしゃべる男って、どうなのか。女性のレイプシーンを執拗に描きたがる野島伸司とどっちがヨカッタ? なんてことを思わず考えてしまうが、なんていうか、ほんと、男を見る目がなさすぎるというものでしょう。

「破滅するのは私の自由」というサガンの言葉が好きだなぁ。

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2009年8月22日 (土)

シャンパングラス

8月18日は結婚X周年記念日だったので、四谷のオテル・ドゥ・ミクニでディナー。
バブリーだけど、X周年記念日くらいは…。それに、犬が失明していて旅行にも行けないし!
前菜の一口目は、目がとびでるほどウマイ!ワインも普段家で飲んでいるのとはまったく違う味!
でもねぇ、不思議なもので、どんなにめちゃくちゃにうまくても、その味に慣れてくるんだよね…。
コースの最後のほうになると、その特別な「味」にも新鮮さが感じられなくなってくる…。
とれたての野菜は、三国のようなマジック的な驚きはないけれど、飽きることがない。
ミクニはたまに行くから、いいんだな、きっと。

で、ミクニでグラスシャンパンを飲んだら、シャンパンの泡がひと筋美しく立ち上げってくる。
なんだ、これは!
私達も安売り店で買ったけっこう高いシャンパンをクリスマスには飲むんだが、こんなに泡が美しく登ってくるのを見たのは、はじめて。
これはシャンパングラスに仕掛けがあるのでは?
というわけで、結婚X年記念に、シャンパングラスを買いました。
そういう泡が出るグラスがあるみたい。でも我々が買ったのは、そういう仕掛けのないシャンパングラス。ヨーロッパの老舗のメーカーのグラスだったから、かなり高い。
でもそういう贅沢をするのも、X周年だからこそ。さていったい何周年なのでしょうか(クイズですか?)。

ほんとは、私はこういう贅沢に、もはや快楽を感じなくなっているのですが、夫はふつうの人なので、ときには合わせる必要も。こういう相方でもいないと、私はどんどん俗世から離れて山にでもこもってしまいがちな魂なので、ときにはこういうことをやって現世に意識を戻さねば…。
そういう快楽をおろかだと思いがちな自分も、なんだかなぁと思うけど、ついついそう思いがちなんだよ。欲とか野心がどんどんなくなり、このまま成仏するんじゃないかと思うほど…。私、どうなるんだ、このさき?

ところで、とあるメーリングリストに引用されていた言葉が素敵だったので、勝手に転載させてもらいます。

『おまえには無理だと言うひとたちがいる。
あれもこれも混合できないと言うひとたちがいる。
しかしおまえはいつかやるだろう。』
Underground Resistance  "Transition"

『もっともっと遊ぼうぜ。
あのクラスター爆弾から。あの日の丸君が代の旗から。
あの天皇陛下万歳の声から。最も遠い場所で。』
さっちゃん

あ、書き忘れてた。
金曜日に『南極料理人』を観てきた。
よくできた映画だった。
南極ですごすのもタイヘンだ!っていうのがしみじみわかった映画。
煮詰まるよなぁ…。
そういうことが描きたい映画ではもちろんないわけだけど。
極限状態で密に過ごしている人間の精神状態が、料理というフィルターを通して見ることができる、とでも言っとけば、映画の解説っぽいかな。
 

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