カテゴリー「霊性」の6件の投稿

2006年10月 3日 (火)

女性性と男性性

スピリチュアリティとかヒーリングとかオルタナティブメディスンとかについて、けっこう長期間にわたって取材をしていた。
ちょうどオウム事件が起こった頃で、当時はまだ霊性とかスピリチュアリティとかいう言葉も一般的ではなかったし、オウム事件の影響でそういうものに対する不信感が強まった時期だったかもしれない。

自分自身の興味もあり、かなりコミットしてそういう世界に入り込んで取材をした。
自分でもスピリチュアル・ヒーラーから直接学んだり、いろいろ勉強したりした。
だから本当は、ヒーリングとかマッサージとかいろいろできるんだぞ~。
今はこんな風にブログなんか書いているけど、ほんとはものすごく怪しいスピリチュアルな能力をもった人間なんだぞ~。
というのはウソだけど、いろいろつまみ食い的に勉強したから、やろうと思えばできないわけではない。

ま、それはいいとして、そういう価値観を勉強してみることはいい意味でも悪い意味でもいろいろとおもしろかった。
自分がそれまで慣れ親しんできた知の枠組みとは異なる世界観だったから。

おもしろい視点だと思って自分の中にとりいれたものもあれば、それはないんじゃないの?と疑問に思うことも多くあったが。

それはどうなんだろう?と思ったことのひとつは、女性性と男性性についての考え方だ。

こういうスピリチュアルな人達は、これからはみずがめ座の時代に移行し、ピラミッド型のヒエラルキーが支配していた社会構造から、対等な関係性に重きが置かれる世界へと変化していくと言っている。
それはまあいい。
というか、そうあってほしいと私も思っている。

そしてさらに彼ら彼女らは、これからのみずがめ座時代には、各個人ひとりひとりの中で男性性と女性性を統合していかなければならないのだという主張につなげていくのである。

ひとりひとりの中に、いわゆる男性性と言われるような積極的な部分・社会に働きかけていったりルールを構築していくような部分と、いわゆる女性性と言われるような受容的な部分・母親的な無条件の愛・慈愛の気持ちなどといった部分を、統合せねばならないと……。

                        
そう、彼ら彼女らは、やたらと「統合」ということが好きなのだ。
統合して、バランスのとれた全体的な「自己」へと向かうべきだとやたら主張する。

ま、確かに、男は男らしく女は女らしく、と言っているよりはずっとましだと思うけれども、でもそんなに統合しなきゃいけないものかねぇ、などと私は思うわけである。

別に片寄っていてもいいじゃん。
無理して統合しなくても、それが個性じゃないの?
いろいろな人がいるんだしさぁ。

男性がいわゆる女性役割と言われているものをやったって、女性が男性役割をやったっていいじゃん。
そういうのが好きで得意なら、得意な分野を活かせばいい。
それぞれの人に、向き不向きだってあるんだし。
こうあるべきっていうのが、やっぱり一番人を息苦しくさせるのでは?

かつてのフェミニズムでは、主婦に対して批判的な態度を持つ人もいたようだけど、私は主婦だって主夫だってぜんぜんオーケーだと思うし。
経済活動をしているからえらいとは、これっぽっちも思ってないし。

みんなが同じものを目指したり、みんなが型にはまったように同じ振舞をしたり、そっちのほうがよっぽど気持ち悪い。

                            
などと、そんなことを急にふと思い出したから、書いてみました。

               

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2006年4月 7日 (金)

マイブーム

自分がこのブログに書いたものを読み返してみると、霊性や「気」についての記述が多いことに驚く。
今はそれが私のマイブームなんだな…。

去年は、味噌作りをやったり天然酵母パンをつくったり、森達也の本を読みまくったり、辛淑玉のおっかけをやったり、映画『メゾン・ド・ヒミコ』を観てオダギリ・ジョーにはまったり、サンボマスターに熱狂したり、一時的にくどかんファンになったり、有機農業をやっている農家の方々のところを見学に行ったり、自然エネルギーに興味をもったり、篠笛を再開したり……と、霊性だとか「気」だとかとはまったく無関係のことばっかりやっていたのだが。

おととしは、地域通貨に興味を持って自分でもワークショップをやったり、市民運動系に関心を持ってイベントなどにいろいろと参加したり……とかそんな感じだった。


自分の内側からわきあがってくる好奇心や関心のおもむくまま、ただ動いているというそういう感じだ。

自分の知らない世界にすごく興味がある。
自分とはまったく異なる世界観や新しい視点などと出会うと、もっと知りたいという欲求が出てくる。
ちょこっとかじると、けっこうすぐに関心が薄れて、他のことに興味が向かってしまうんだけど。
でも、またしばらくすると、そのことに再び興味をもって戻っていったり。
(そうやって戻ったときには、かつて関心があったものに対して、また別の視点で眺められるようになっていたりもする。)
そういうことを繰り返している。


霊性だとか「気」だとかに関心を持っているのは、単純に言えば、それらが自分にとって未知の世界だから。
未知のものや自分の知らない世界と出会うと、ものすごくわくわくしてきて、それはなんなんだ?もっと知りたいと思ってしまう。
そして、へ~こういうものの見方もあるんだ、こういう視点もあるんだ~と発見するのは、理屈抜きにおもしろい。

自分に関して言えば、特定の宗教を信じていない。
ひとつのことを追求したり、信仰したりするほど、勉強熱心ではないんだろうな、たぶん。
あと、どうしても集団とか組織だとか権威ある人だとかが苦手で、そういう人や団体から遠ざかりたくなる。

神についての自分の感覚は、八百万の神というか汎神論というかアニミズムというか、すべての事物に神が宿っているという感覚に近い。
人間の細胞ひとつひとつにも神が宿っているというような感覚。
自分の中に神がいて、目の前にいる人も神の化身で、風にも石にも道端の草花にも、昆虫にも、すべてに神があるという感じ。

でも、だからといって宗教を否定しているわけではない。

ひとつのものでも、いろいろな角度から見れば見え方が変わってくるように、ひとつの世界を様々な視点からとらえた場合、ある視点から見ればそれがキリスト教的な世界観になり、また別の視点から見れば仏教的な世界観になり…という、そういう差なのではないかと思っている。

どれが正しくてどれが間違っているということも、どれが上でどれが下ということもないと思う。
どの宗教もある特定の環境や歴史のなかで、必要があって生まれた世界観なのではないかとそういう風に私はとらえている。
こういうことを言うと、信仰している人からは怒られてしまうのかもしれないけど。

私にとっては、いろいろな視点や価値観やものの考え方というものに対して、ただただ無条件に興味や関心があるということなのだ。
それが正しいか間違っているか真実か真実でないかの判断以前の、未知のものに対する関心であり、今のところは霊性や「気」というものもそのうちのひとつ。

ただ、もしかしたら、そのうちいつか強い信仰というようなものを必要とする時がくるのかもしれないけれども。
自分のことはわからない。
10年前の自分は、10年後の自分がこういう考え方をしているなんて想像もしていなかったから。

予想もつかないから、人生はおもしろい。

                                  

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2006年3月22日 (水)

西遊記

あ~なんかイライラする。
やることがいっぱいたまっているのに、少しもはかどらない。
購入したminiSDカードのアダプタが、私の使っているパソコンでは使用できない機種だったのに、それを知らないで一生懸命差し込んで動かない~と苛立っていたし。
こういう時には、イライラが重なるもんだ。

もう寝ちゃいたいけど、寝る前にどうしても片しておかなければならないことがあるので眠れず。
なので、気持ちを切り替えるためにこうやって書いている。
…………

3月20日に箱根から帰ってきてテレビを何気なくつけたら『西遊記』がやっていた。
第一話の時もテレビをつけたら偶然やっていて見ていたから、最初と最後だけはちゃんと見た。
途中の回は2~3回くらいは見たかな…。
途中の回の時はあんまり集中しないで見てたけど。

第一話と最終回は非常によくできていた。
この2話を見てさえいれば十分というような内容だった。

第一話で、妖怪だった孫悟空を救った三蔵法師が、最終回では逆に孫悟空に救われるという設定。
天竺にいる教条主義的な僧侶たちと、それに対して、お経は人の心の中にあるのだという三蔵法師の言葉。

いつも孫悟空を叱っていた三蔵法師が、こんどは自分自身が僧侶達に向かって「ばかもの」と言い、「仲間をそんな風に言うのだけは許さない」と毒づく。
一方、孫悟空の方はどんなに僧侶達に叩きのめされても、自分からは手を出さない。
僧侶が妖怪から学んだのだ。
そして妖怪もまた僧侶から学んだ。
これは貴重なシーンだ。
真の解脱者は、あらゆる先入観や偏見をこえ、対等な目線ですべてのものを正見せねばならない。
そして誰からも学べる自在さを持っていなければならない。

ドグマや権威にとらわれて、それによって縛られてはならない。

非常によくできた脚本だった。
この脚本家の人はかなり勉強しているように思った。
仏教というもののエッセンスを非常にわかりやすく伝えている。

でも、あの番組で描かれていた老子とお釈迦様のキャラクターっていいよねぇ。
老子はもっと淡々とした人であるというイメージが私の中にはあるのだけれども、お釈迦様のイメージは私が抱いているイメージときわめて近い。
自在で、とらわれず、目の前にいる相手の心に沿う…というか。
堺正章は、はまり役だよなぁ。
堺正章は、孫悟空をやってもお釈迦様をやっても、どっちでも違和感ない。
器用な役者だ。

『西遊記』の原作を読んでみたくなった。
ネットで検索してみたら、以下に参考文献が載っていた。
http://www9.plala.or.jp/riversite/saiyuki/bunken.html

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2006年3月21日 (火)

伊豆温泉旅館宿泊券が当たって、伊豆・箱根の旅をしてきた

3月19・20日と、伊豆→箱根の旅をしてきた。
なぜ行ったかというと、昨年浄水器を購入し添付されていたアンケート葉書に記入して投函したら、なんと!伊豆の温泉旅館宿泊券(二人分)が当たったのだ!!
私の人生初の快挙である。

そんなわけで、夫と一緒に伊豆の温泉宿に一泊した。
せっかく行くのだから、ついでに箱根かどこかにもう一泊しようかどうか随分と迷った。
しかし、我が家には老犬2匹がいる。
この2匹を飼い始めてから私たちは長期の旅行ができなくなった。

飼い始めて間もない頃、犬を獣医さんに預けて、夫と一緒に一週間くらい海外旅行したことがある。
そうしたら、男の子犬のほうは獣医さんのところのケージから出たがって、頭をケージにこすりつけてすりむけるほど寂しがったらしい。
一方女の子犬のほうは、海外から戻ってきて抱き上げたら肩まで駆け上がってきた。よっぽど怖くて寂しかったのだろう。
たぶん、捨てられてしまうと勘違いするのだと思う。
短い旅行でも獣医さんに預けて連れ帰った後は、ストレスですごい下痢になってしまい家中がたいへんなことになる。

そんなわけで旅行に行くことがなかなかできない。
なので、今回も結局一泊するだけにして、帰りに箱根に行って遊んでそのまま帰宅することにした。

しかし一泊だとしても、犬のストレスと犬のストレスを見ている我々のストレスときたらたいへんなものだ。
獣医さんに預けると(もう何回も預けているのだから、少しは慣れてくれてもよさそうなものなのに)この世の終わりかと思うような哀れな声を出して、キューンキューンと鳴く。そして訴えかけるような目をして見ている。
その声を聞きその姿を見ると、私の心は千々に乱れるのだ。
ごめんよ、ごめんよ。獣医さんはいい人だから安心して、と心の中でつぶやきながら旅に向かった。
(しかし、旅の間中、気が気でなかった。)

当選で当たった旅館なのでたいしたことはないのだろうと思っていたのだが、予想に反して伊豆の宿はいい宿だった。宿自体はひなびた温泉宿という感じでもなく、団体客も来るような宿なのだが、私たちの泊まった部屋はたぶん宿の中で一番いい部屋。
部屋からは富士山が見えた!
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露天風呂もけっこういい。食事も工夫をこらしてあった。

宿泊食事ともに無料なので、思わず酒をいっぱいのみ(もちろん有料)、アロマオイルのリフレクソロジーまでやっちゃった(もちろん有料)。
リフレクソロジーの施術者は腕がよかった。使ったオイルはローズマリー。
私はオルタナティブ・メディスンの記事を書いていたので、ありとあらゆるボディワークやヒーリングなどを体験している。
ヒーリング系やスピリチュアル系のボディワーカーはいろいろなエネルギーを流してくることがあり、自分にはそれが疲れる。一方、温泉などで施術をしている人は仕事に疲れていることが多く、逆にこっちがケアしてあげたくなることもたびたび。
だが今回の施術者の方は非常に的確なワークをし、しかも仕事を楽しみながらやっていらっしゃる。
聞けば、鍼灸の資格を持っているとのこと。ライター魂に火がつき、終わった後いろいろと取材してしまった。
アロマオイルやフラワーエッセンスについても書きたいのだけれども、書き出すと長くなるから、また別の機会にする。

翌日はいざ箱根へ。
なぜ箱根かというと、箱根神社へ行ってみたかったのだ。
箱根ってけっこうパワースポットなんじゃないかな、と、そんな感じがあった。

そしてどうせ箱根へ行くなら、強羅花壇で食事をしようということになった。
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強羅花壇は、宿泊したらとんでもなく高いのだけれども、ランチで懐石料理を食べるくらいなら手が出る。(それでもけっこう高かったけどね。)
強羅花壇はやはり素晴らしかった。
建造物と熟練したサービスと絵のように美しい食事。
食後に強羅花壇の本館でお茶を飲んだのだが、なんてすがすがしい空間なのだろう。
香がたきこめられていて、静かで、ひろがりのある空間。
細部にまで心配りがされていて、この宿をつくった人や働いている人たちの並々ならぬ愛が感じられる。
でも泊まると死ぬほど高いので、お茶を呑んで雰囲気だけ堪能する私たちだった。

その後、すぐ近くで陶芸体験。
P3200030
商売熱心なスタッフはいくつも作らせたいのか、やたら手伝ってくれる。
ほっといてくれ~。下手でもいいから自分で全部やりたいのだ~と心の中で叫ぶ私。
でも結局、夫も私も4つずつ作品をつくり、3つずつ購入。(値段は体験料金込みでばか高かった。)

最後に箱根神社へ。
P3200034
どうして私は、山岳信仰とゆかりのある神社に惹きつけられてしまうのだろう。
ここもまたそういう神社だった。
かつてバーバラ・ブレナンというヒーラーが来日してこの神社を参拝した時、境内の木に「からす天狗」がとまっているのを見たという。
社(やしろ)に向かうまでの道は大きな木々で日陰になっていてちょっとこわい雰囲気もあったが、境内はすごくあかるくてなんだか懐かしいあったかい感じ。
こどもの頃よく遊んでいた神社の境内っていうような感覚だった。
境内までの階段を登りきったところから振り向くと、階段の下のほうに湖が見える。
湖の水面がキラキラと光を反射させているのが、鳥居の間に見える。
子どもたちが階段を駆け下りている。
切り取られた青い水面の方へ。

美しくて、懐かしい。
そんな場所だった。
P3200038

そんなわけで、昨日の夜遅くに帰宅し、きょうやっと愛犬2匹のお迎えへ。
またもやこの世の終わりかと思うような声を出して、さびしかったんだぞ~と訴えてきた。
だからきょうは犬といっしょにずっと過ごした。
ほっとしたのか、いびきをかいて寝る犬たちだった。

犬の宿泊代金は一泊3千円で二泊×二匹なので、1万2千円也。
それに犬のシャンプー代金。(そのまま連れて帰ると、他の犬のノミまで一緒に連れてきちゃうから。)
伊豆の宿での酒代、リフレクソロジー、強羅花壇の懐石料理、陶芸体験、高速料金代…と、結局すごい出費。

やっぱり、ただほど高いものはない。

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2006年3月16日 (木)

人間は生まれながらに仏である

久しぶりに外出しなくてもいい日だったので掃除や片づけをしようと思っていたら、なんと4時間も爆睡昼寝をしてしまい、起きたらもう夕方だった。
疲れていたんだな、よしよしよしと、そういう自分を肯定してあげることにしよう。
…………

ところで、私は性善説の持ち主である。
人間というのは、生まれながらにして仏であり善なるものであると信じている。
だって、邪悪なあかちゃんっていないもん。

それなのに、おとなになってからなぜ人は人を平気で傷つけたり、虐待したり、いじめたり、差別したり、暴力をふるったりしてしまうようになるのか。
そのことをずっと昔から考えていた。

今現在の自分なりの答は、環境や教育の中でそういう行動を身につけてしまうのではないかということ。差別だとか暴力だとかが当たり前の社会に育ったら、そうするべき(そうしないとだめだ)と思い込んでもおかしくない。愛されたことのない人間は、愛し方もわからない。

また同時に、自分以外の人間が自分と同じように苦しみ、痛みを感じる人間だということを忘却し、他者をモノのように感じる時、その時人間はなんでもできる。
軍隊というのは、そういう訓練、そのための訓練をする場所なのだと思う。
いちいち相手の痛みや苦しみに思いをはせていたら、戦争なんてできないからね。
だから戦争ではなんでもありなのだ。レイプも虐待も残虐な殺し方も。相手を同じ人間だと思わないように、自分を麻痺させているのだから。

自分とは異質の人間のことを、自分と同じように感じ苦しみ呻吟する人間であるということを理解するのはむずかしい。だから自分とは違う人間を排除しようとする。男たちは、女は自分とは異なる人間だと思うからずっと差別してきた。

自分とは立場や生き方や考え方の違う人間のことを理解するのはむずかしい。
相手の痛みを感じることは苦しいことだ。
自分だけでもいっぱいいっぱいなのに、他の人の痛みも抱え込まなければならないのは苦しいことだ。
そして自分が憎しみを感じてしまう相手の気持ちに思いをはせるのは、なお困難なことだ。

どうしても理解できない相手もいる。
でもそういう時にでも、人はすべて仏なのだということを思い出すようにしたい。
そうではなくさせている社会や世界のありかたを変えていくことで、みんなが自分が本当は仏なのだと思い出すことができたら…と、こどもじみた夢を抱いている。

しかし、現実のこの私自身は、仏どころか怒りの邪鬼と化すことしょっちゅうである。
今ドラマでやっている『西遊記』の中で、孫悟空役の香取慎吾 が「神様仏様が許してもこの俺様が許さね~!」と言いながら妖怪を退治しているが、このコトバを一日に何度心の中で叫ぶかわからない今日この頃だ。

ほんと、仏の境地になりたい。

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2006年2月26日 (日)

不可触民から僧侶になったボディ禅士

2月24日(金)は、西荻窪にある「ほびっと村学校」でボディ・ダンマ禅士のお話を聞く会に行ってきた。

ボディ・ダンマ禅士はインドのカースト制の最下層である不可蝕民に生まれながら、僧侶になった人。

チャーミングで素敵な人だった。

印象に残っているのは、

「手というものは、人を殺す手にもなれば、愛撫する手にもなるし、祈る手にもなる。同じ手が仏にもなり、地獄に通じる道にもなる。天国も地獄も自分の心の中にある」という言葉。

その場で売っていた本

『アンベードカルの生涯』(ダナンジャイ・キール著、山際素男訳、光文社文庫、1000円+税)、『ブッダとそのダンマ』(BR・アンベードカル著、山際素男訳、光文社文庫、1000円+税)

の2冊を購入。

アンベードカルは、不可触民に生まれ、被抑圧カーストの地位向上に尽力し、新生独立国インドの初代法務大臣としてインド憲法を作成し、不可触民を犯罪として断じて廃止させた人。

帰りのバスの中で『アンベードカルの生涯』を少し読んだらそれだけで涙が出てきたから、やばいと思ってあわてて読むのをやめた。

また、感想はブログに書きます。

それにしても、ほびっと村は相変わらずいいなぁ。

一階には長本兄弟商会という元祖・有機野菜の八百屋さんがあり、3階にはいつもおもしろい企画をいろいろやっている「ほびっと村学校」と、本屋「ナワ・プラサード」。

「ナワ・プラサード」には、あやしげな本がいっぱい置いてあって、いくらいても飽きない。

ボディ・ダンマ禅士のお話のあと、「ナワ・プラサード」でいつまでも本を見ていたら、ほびっと村の人が、2階にあるバルタザールというカフェ・レストランでボディ禅士も含めて食事をするのでご一緒しませんかと誘ってくれた。

どうしよう~。緊張するじゃないか~。緊張のあまりへんなことを言っちゃいそう~。恥ずかしくてかたまっちゃいそう~。と、いろいろな不安が頭のなかをかけめぐり、今回は遠慮させていただいた。私ってどうも臆病でいかん。

ボディ禅士のお話を聞ける機会がまたあったら、ぜひ行ってみたい。

「ほびっと村かわらばん」には、流暢なインド巻き舌日本語と書いてあったけど、本当に日本語が堪能でいらっしゃる。しかもユーモアのセンスもばつぐん。「ほんまに…」とか言ってたなぁ(笑)。

アンベードカルの生涯 Book アンベードカルの生涯

著者:ダナンジャイ・キール
販売元:光文社
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ブッダとそのダンマ Book ブッダとそのダンマ

著者:B.R.アンベードカル
販売元:光文社
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